クマとナデシコ 博堂会次期若頭候補の熊井宗一郎は撫子さんの愛が欲しい
中身の無いつまらない内容だったら早々に軽くあしらってしまおうかと撫子は思っていたのだがどうやら違うらしい。彼女がそう思ってしまうのも、他人を外見で判断してしまうのも、今まで随分と面倒くさい目に遭ってきたからだった。
お陰で無駄に目が肥えてしまったがこれは裏社会である程度、親のせいで名の知れている自分を守る自衛の手段のひとつ。つまりは変な男と繋がりを持たないようにしていたのだが……。
「とても失礼だと承知の上で正直に言うと、仕事の愚痴みたいな話を聞いてくれそうな人を探していたと言うか」
光岡はクラブ内でひときわ騒いでいる一画を見る。どんちゃん騒ぎとまでは行かないが派手に遊んでいるのは彼と同じ、三次団体の若者たち。柔らかな印象をもたらす髪形のせいでいくらか中和されているがシャープさのある光岡の目つきは厳しい。
その物言いも「ああ言う連中がドラッグ売買のゲートになっているんですよね。小遣い稼ぎに海外のブローカーから独自に仕入れて」と吐き捨てるようだった。
どうやら光岡は頭が回るタイプかもしれない。これはあくまでも第一印象から生じた推測でしかないがホストの斎藤兄弟が座る前から既に数名に話しかけられて疲れてきていた撫子は「光岡さん、少しあちらで飲みますか」と静かなバーカウンターがあるセクションに彼を誘う。
「え、あ、良いんですか?さっき熊井さんが」
「宗く……宗一郎君、奥まで連れて行かれちゃったみたいなので」
「熊井さんが来てるのも珍しいですよね。ご挨拶したかったんですが」
ふふ、と笑う撫子は「またその内に発見できると思いますよ」とボックス席のソファーから立つ。ヒールを履いているので素の身長より5センチ近く背が高いのだが光岡もそれなり身長がある。
体そのものが縦にも横にも大きい宗一郎を見慣れているので気づかなかったが光岡も同じくらいに背が高く、撫子は軽く見下げられてしまう。
ボックス席がある場所から離れた二人はカウンター手前にあるハイチェアに座る。
「ここ、国見さんの所の関本さんの趣味で美味しいドリップバッグコーヒーが置いてあるんです」
それなりにお酒を飲んでいた撫子はソフトドリンクの中でも裏メニュー的なホットコーヒーが存在しているのだと光岡に話すと彼もそれに乗って来た。
「じゃあ関本さんのホットコーヒーを二つ、お願いします」
バーテンも相手が龍堂撫子と分かっているので当たり前のようにお湯を沸かし始める。
「本当にあるんですね」
湯を沸かす片手間にどこからともなくコーヒーカップを取り出して用意をしているバーテンの手元を見る光岡を横に、撫子は少し凭れるようにカウンターに体を寄せる。
「良い事を聞いてしまった、と思っても良いんですかね」
「それに関本さん、甘党ですよ」
撫子の何気ない言葉に含まれている貴重な情報。
それを相手が理解できているかどうかを観察するのも職業病と言うか。撫子はそんな行動をしてしまう自分に最近、疲れていた。
「私なんて三次の小倅ですから、参考になります」
口ぶりからして光岡が話の分かる相手で良かった、と撫子は出されるコーヒーと小皿に添えられている生チョコレートに視線を落とす。
もし関本に手土産を渡す機会があるならコーヒーと洋菓子が良いのだと……それをすぐに理解した光岡に撫子も心が動いたとき。
「龍堂さんは何かお好きな物とかありますか?」
「私、ですか」
そう振って来るか、と撫子は思ったがごく自然な話の流れに「私もチョコレートが好きで」とカップに指先を掛けてひと口、ブラックのままでコーヒーを味わう。
「飲みなれてるんですね」
「ああ、ブラック……だから、ですか」
「あまりにも自然だったので意外と言うか。あ、でも甘いものと合わせるならブラックか」
宗一郎とはテイストが違うな、と撫子は思う。
この光岡令士と言う人物は多分自分よりも年齢が幾つか上の筈なのに最初から丁寧な口調を変えることはなく、博堂会の三次団体の息子……自らは到底、龍堂に及ばない格下の者であることをわきまえている。
何が目的なのか身構えもしたが立場が分かっているともなれば軽く話をする程度なら付き合っても良い。若くして様々な人間を見て来た撫子でもそう思えるような男だった。
会話をするとき、宗一郎は真っ直ぐに自分を見つめてくるが光岡はやはり少し視線を下げている。まあ初対面だし、と撫子は生チョコレートが乗った小皿に添えられていた華奢なフォークを手に取る。
そしてブロック状のチョコレートを半分に切り分け、口に運ぶ。疲れている身に甘く沁みるチョコレートは美味しかった。なによりこれは関本の秘蔵。
今夜はこの光岡の相手をしたら帰ろうかな、と改めて隣に座っている彼の身なりを確認する。
ジャケットの左袖から覗く腕時計は国内メーカーのビジネス向けのライン。そのスーツのジャケットの縫製も良さそう。中に着ているカラーシャツも派手過ぎず、全体的に纏まりが良い。髪の緩やかなウェーブも人当たりの良さそうな雰囲気を後押ししていた。
(宗君は体が大きいから海外ブランド中心になっちゃうのよね)
宗一郎の腕時計は太い手首に対して貧相にならないように外資ブランドのかなり重たそうな、値段も国産のそこそこのセダンが軽く一台買える物をつけている。しかしそれは『お出掛け用』なのだと本人から聞いているので多分、本当にそうなのだろう。宗一郎はそう言う気質なのを撫子はよく知っていた。
彼は日々、極道世界での立場を考えた服装が要求されている。頭のてっぺんから革靴の先までしっかりと整えなければならない。
「あの、龍堂さん」
「撫子で良いですよ。多分、私の方が幾つか年下の筈ですし」
撫子が名を呼ぶのを許す相手は少ない。
光岡なら調子に乗らなそうだな、との判断。
「そんな、良いんですか」
「光岡さんだと多分、35か6くらい……?私は34になったばかりだから」
「あ、当たってます。今年で36ですね。でもこのくらいの年齢になってしまうと相当、歳が離れていない限りあまり年齢差を感じなくて」
頷く撫子に光岡もカップを傾ける。
彼もブラックなんだ、と見ていると「お好きでしたらどうぞ」と光岡は自身に出されていた生チョコレートの小皿を撫子に差し出してしまう。
「光岡さんは甘い物……」
「ああいや、嫌いとかじゃないんですがさっき撫子さんがとても美味しそうに食べていたので」
確かに美味しかった。
だってこれは関本秘蔵のチョコレートコレクションの一つ。香りもよく、コクと品のある甘みが疲れた身に沁みるくらいに美味しかったせいでどうやら表情や仕草で光岡にバレてしまっていたらしい。
ここが六本木のクラブのバーカウンターではなかったらどこか洒落たコーヒーショップでの大人同士の落ち着いたやり取りにも見えるのだが撫子も背後で繰り広げられている騒がしさを半身、振り向くようにして見る。
「この絶妙な年齢なってしまうと世間的にどう立ち回って良いか分からなくなりますよね。光岡さんはこのまま家業を継がれる予定で?」
「ええ、いずれは組を父から。まあ今も実質的にはほぼ、引き受けてしまっているので」
話を聞きながらうん、うんと頷く撫子は遠くで頭ひとつ飛びぬけている宗一郎を見つけ、軽く目で追う。それに気が付いた光岡も同じようにフロアを見渡した。
「熊井さんは皆から人気のようですね」
「半分、マスコットみたいな感じかも」
「今の博堂会としては熊井さんみたいな人材が必要なのかもしれません。私はあまり横の繋がりと言う物を持っていないから」
熊井さんからも話が聞けたらな、と呟く光岡に撫子が興味を持ってしまうのも無理はなかった。ここまで落ち着いて話が出来るのは同級生である関本や許婚の宗一郎くらいで、女性で家業を請け負っている者は極端に少なかった。それゆえに日頃から一人で悩んでしまうことも多い。