触れてはいけない距離
 ふたりの間に沈黙が落ちる。話すべき言葉はとっくに尽きているはずなのに、湊の瞳が綾乃を捉えたまま離さない。

 それは責めるようでも、試すようでもなく――ただ彼女の“今”を確かめようとするようなまなざしだった。

 綾乃は、湊から注がれる視線を逸らせなかった。逃げ出すほどの勇気も、向き合えるほどの覚悟も、どちらも持っていないまま。けれどこの夜に、なにもなかったふりをすることも、もうできそうになかった。

「義姉さん、少しだけ話せる?」

 湊がそっと問いかける。その声は低く穏やかで。それはまるでふたりの間柄を壊さないように、慎重に吐き出されたもののように感じた。綾乃はただ、黙って頷く。

 ふたりは並んで階段を降りた。夜のリビングは灯りも消え、雨音だけが静かに響いていた。

 湊がカウンターの明かりをそっと点ける。橙色の光が、互いの影を浮かびあがらせた。

「……コーヒー淹れるね」

 綾乃の言葉に、湊は少しだけ口元を緩める。

「こんな時間に? ふたり揃って眠れないのに、コーヒーを飲むんだ?」
「だって、どうせ眠れないもの」

 カップをテーブルに並べる綾乃の手が、少しだけ震えた。湊はその横顔を見つめる。何度も、記憶の中で繰り返し見てきたはずの横顔なのに――今はひどく遠く、そして愛おしかった。

「……義姉さん」

 湊が熱を帯びた声で、綾乃を呼んだ。彼女の手がそれに呼応し、ぴたりと止まる。

「義姉さんごめん。さっきのこと、言わなきゃよかった」
「どうして?」
「期待してしまいそうになるから」

 湊の声はどこか苦くて、優しかった。

「俺はずっと抑えてきた。兄貴の隣にいるあなたに、こんなこと思っちゃいけないって、ずっと。だからあなたが少しでも俺を見てくれると、このまま止まらなくなりそうで」

 綾乃の胸に、なにかがじんと広がる。どこまでが間違いで、どこまでが本音なのか、自分でももうわからなかった。

「もし、私が崇さんの妻じゃなかったら……あなたの気持ちを、真っ直ぐ受け止められたのかもしれないのにね」
「じゃあ今は?」

 綾乃は返せなかった。答えたら、すべてが変わってしまう気がした。

 湊の手が、テーブルの上でそっと綾乃の指先に触れる。優しい熱が、そこにじんわりと宿る。けれどそのぬくもりに甘えてはいけないことを、ふたりとも知っていた。

「ごめん……でも」

 湊が囁く。

「義姉さん、この距離だけはもう壊れてるよ。俺たちがどれだけ取り繕っても、“家族”じゃいられないところまで来てる」

 その言葉に、綾乃の胸が苦しくなった。正論でも暴走でもない。ただ静かに、真実を告げられただけなのに――心がひどく揺れる。

 時計の針が、深夜二時を指した。窓の外ではまだ雨が降っている。ふたりの指先は触れたまま。だけど、その先へは踏み出せない。

 ほんの数センチの“深夜の距離”を残したまま、ふたりはそれぞれの沈黙に戻っていった。
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