触れてはいけない距離
温度の残る食器
崇が家を出たあと、リビングには静けさが戻っていた。
綾乃は立ち上がろうとして、テーブルの上にある湯気の消えかけたコーヒーに視線を落とす。飲みかけのままのカップ――それは湊のもの。すぐ隣には、自分の使っていたスプーンが残っている。
ふたりきり。沈黙の中、時間だけがじわじわと伸びていく。
「……昨日のこと」
先に言葉を発したのは、湊だった。
綾乃の手が僅かに止まる。テーブルを拭きかけていたクロスを握ったまま、目線を皿の上に落とす。昨日のなにを告げようとしたのか訊ねたいのに、綾乃の口は動くことがなかった。
「覚えてるよ。夢じゃなかったんだって、今朝思い出して……それだけで、どうしてか嬉しくなってた」
綾乃は答えない。ただ、拭いていたテーブルの縁をもう一度なぞる。
「でも……そんな自分が、一番怖いのかもしれない」
湊の声は淡々としているのに、不思議と胸の奥に引っかかった。
(怖いのは……わたしも同じ)
湊の視線がテーブルの上の“残り”を見つめた。食べかけのパン、飲み残しのコーヒー――もう誰も手をつけないはずのものが、まだそこに在る。
「義姉さん今日もこのまま、なにもなかったように過ごせると思う?」
問うようなその湊の瞳を、綾乃は見られなかった。
「わからない。でも……」
言いかけて、やめる。続ければ、戻れなくなる気がした。
ただ言葉にしない代わりに、綾乃は湊のコーヒーカップにそっと手を伸ばした。ぬるくなったその熱を、指先がまだ感じる。
“なにもなかったように”は、もうできない――そう思い知らされたのは、その僅かなぬくもりだった。ぬるくなったコーヒーの匂いが、今もどこかに残っている気がする。
綾乃は立ち上がろうとして、テーブルの上にある湯気の消えかけたコーヒーに視線を落とす。飲みかけのままのカップ――それは湊のもの。すぐ隣には、自分の使っていたスプーンが残っている。
ふたりきり。沈黙の中、時間だけがじわじわと伸びていく。
「……昨日のこと」
先に言葉を発したのは、湊だった。
綾乃の手が僅かに止まる。テーブルを拭きかけていたクロスを握ったまま、目線を皿の上に落とす。昨日のなにを告げようとしたのか訊ねたいのに、綾乃の口は動くことがなかった。
「覚えてるよ。夢じゃなかったんだって、今朝思い出して……それだけで、どうしてか嬉しくなってた」
綾乃は答えない。ただ、拭いていたテーブルの縁をもう一度なぞる。
「でも……そんな自分が、一番怖いのかもしれない」
湊の声は淡々としているのに、不思議と胸の奥に引っかかった。
(怖いのは……わたしも同じ)
湊の視線がテーブルの上の“残り”を見つめた。食べかけのパン、飲み残しのコーヒー――もう誰も手をつけないはずのものが、まだそこに在る。
「義姉さん今日もこのまま、なにもなかったように過ごせると思う?」
問うようなその湊の瞳を、綾乃は見られなかった。
「わからない。でも……」
言いかけて、やめる。続ければ、戻れなくなる気がした。
ただ言葉にしない代わりに、綾乃は湊のコーヒーカップにそっと手を伸ばした。ぬるくなったその熱を、指先がまだ感じる。
“なにもなかったように”は、もうできない――そう思い知らされたのは、その僅かなぬくもりだった。ぬるくなったコーヒーの匂いが、今もどこかに残っている気がする。