触れてはいけない距離

温度の残る食器

 崇が家を出たあと、リビングには静けさが戻っていた。

 綾乃は立ち上がろうとして、テーブルの上にある湯気の消えかけたコーヒーに視線を落とす。飲みかけのままのカップ――それは湊のもの。すぐ隣には、自分の使っていたスプーンが残っている。

 ふたりきり。沈黙の中、時間だけがじわじわと伸びていく。

「……昨日のこと」

 先に言葉を発したのは、湊だった。

 綾乃の手が僅かに止まる。テーブルを拭きかけていたクロスを握ったまま、目線を皿の上に落とす。昨日のなにを告げようとしたのか訊ねたいのに、綾乃の口は動くことがなかった。

「覚えてるよ。夢じゃなかったんだって、今朝思い出して……それだけで、どうしてか嬉しくなってた」

 綾乃は答えない。ただ、拭いていたテーブルの縁をもう一度なぞる。

「でも……そんな自分が、一番怖いのかもしれない」

 湊の声は淡々としているのに、不思議と胸の奥に引っかかった。

(怖いのは……わたしも同じ)

 湊の視線がテーブルの上の“残り”を見つめた。食べかけのパン、飲み残しのコーヒー――もう誰も手をつけないはずのものが、まだそこに在る。

「義姉さん今日もこのまま、なにもなかったように過ごせると思う?」

 問うようなその湊の瞳を、綾乃は見られなかった。

「わからない。でも……」

 言いかけて、やめる。続ければ、戻れなくなる気がした。

 ただ言葉にしない代わりに、綾乃は湊のコーヒーカップにそっと手を伸ばした。ぬるくなったその熱を、指先がまだ感じる。

 “なにもなかったように”は、もうできない――そう思い知らされたのは、その僅かなぬくもりだった。ぬるくなったコーヒーの匂いが、今もどこかに残っている気がする。
< 13 / 45 >

この作品をシェア

pagetop