触れてはいけない距離

触れてしまえば

 翌朝、湊は何事もなかったように家にいた。リビングのソファに浅く腰かけ、新聞を広げるその姿はいつもと同じで――けれど、綾乃の心はざわめいた。

(昨日、帰ってなかった……よね?)

 聞きたかった。でも聞けなかった。

「義姉さん、おはようございます」

 まず声をかけたのは、湊のほうだった。穏やかで日常に溶け込む、とても優しいトーン。その瞬間、綾乃は自分の緊張がバレた気がして、言葉を返す前に一度、深呼吸をしてしまった。

「……おはよう」

 精一杯、普段通りを装う。だけど視線を合わせるのが怖かった。もし彼の目の奥に、なにかを読み取ってしまったら――きっと、もう引き返せない気がした。

 朝食を並べる手元が、少しだけ震える。背後に湊の気配を感じるたびに、心臓が妙なリズムで跳ねてしまいそうになった。

「義姉さん、パン焼くの上手だよね。外カリ、中ふわって感じでさ」

 そんな些細な言葉にも、綾乃の指先は止まる。自分の小さな努力に、こんなふうに気づいてくれる人がいる――それだけで、なにかが崩れそうだった。

「ありがとう」

 ようやく声を返せたけれど、目は合わせられなかった。

 湊はそれ以上、なにも言わない。ただ、ふっと立ち上がると、ダイニングテーブルへと向かっていく。その背中が遠ざかるたび、綾乃の中で“迷い”が喉元まで浮上する。

 ――このタイミングで彼の名前を呼んで、止めたらどうなるだろう?

 そんなこと、してはいけない。わかっている。でも、それでも――。

(触れてしまえば、終わるのに――)

 触れた瞬間に、すべてが壊れる。けれど、それでも「壊れてしまってもいい」と思ってしまいそうな自分が確実にいた。

 食卓には、今朝も三人分の朝食が並ぶ。優しさを帯びるこの空気に、崇の存在はなかった。

 夫婦であるはずのふたりの間より、義弟とのほうがよほど“体温”があると、綾乃は知ってしまった。
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