『仮面越しに、君を知る。』
陽射しと青のリレー
六月の風は、少しだけ湿気を含んでいて、制服の襟元がじわりと汗ばんだ。
新緑が校庭の向こうで揺れ、夏の気配を先取りするかのようにセミの声が混じりはじめた朝。
ホームルームの時間、橘先生がいつものように静かに教壇に立った。
「今日の5限は、体育祭のエントリー種目を決めます」
その言葉に、教室が一斉にざわめいた。
体育祭。高校生にとっては一大イベント。
クラスカラーのTシャツを着て、応援をして、全力で走って――非日常が詰まった行事だ。
「体育祭、来たねぇ」と、後ろの席の雫が乙葉の肩を軽くつつく。
乙葉は、腕を組んで少し考えこみながらつぶやいた。
「何に出るか、あんまり考えてないけど……目立たないやつが良いかな」
「いやいやいや、乙葉足速いじゃん。リレー出なよ!」
「雫だって速いでしょ」
「もちろん出るよ。一緒に走ろ? 絶対勝てるし!」
そう言って、無邪気に笑う雫の顔はキラキラしていた。乙葉が何か言い返す前に、前方の教壇から橘先生の声が響く。
「ちなみに、選抜リレーは先日測った50m走のタイムで上位から男女それぞれ4人ずつ選出します。拒否はできません」
「……マジか」と呟く乙葉の肩を、雫がポンポンと叩いた。
「ドンマイ。強制っぽいね」
5限。教室はガヤガヤと騒がしかった。
エントリー用紙が配られ、種目を巡って談笑や交渉の声が飛び交う。
乙葉は空いたスペースに「リレー」と書くのを、仕方ないと諦めたように済ませた。
リレーの練習が始まった。
放課後、グラウンドの一角、トラックの白線がうっすらと陽に焼けて滲んでいる。
その横に立つのは、乙葉と雫――そして、稲葉蓮也と如月湊斗。
「2人もリレーに選ばれたの?」と雫が尋ねると、稲葉はにこやかに笑って答えた。
「そうなんだよ。お互い、頑張ろうね」
その後ろに立つ如月は、肩の力が抜けたような体勢で、面倒くさそうに髪をかき上げた。
「やれやれ……って顔してる」
乙葉は心の中でそう呟く。そして、その姿がどこか自分と重なる気がして、少しだけ口元が緩んだ。
「位置は……私は第3走者だったよね?」
「うん。乙葉が私にバトン渡すの!」と雫が楽しそうに言った。
「男子は、如月くんが3走、稲葉くんがアンカーだったかな」
「俺、最後かあ……プレッシャーすごそうだなぁ」と笑う稲葉に、如月は「お前が一番声出して応援されるタイプだろ」と呆れ気味に言う。
いつの間にか、4人は自然と会話をしていた。
体育祭前のある日。体育館の中では、女子のダンスの練習が行われていた。
「はあ……ダンス苦手なんだよね」と乙葉は小さく呟いた。
「えー、楽しいのに!」と雫が言いながら、お団子に結んだ髪を整える。
「せっかくだから髪、お揃いにしようよ。お団子にして!」
「え、なんで?」
「お祭りっぽくて可愛いじゃん。みんなもやってるし!」
乙葉は渋々了承し、雫に髪をまとめてもらった。
頭に巻いたクラスカラーの青いハチマキが、どこか特別な気持ちにさせた。
そして、迎えた当日。
校庭には応援の保護者の姿も見え、真夏日一歩手前の陽射しがグラウンドを照らしていた。乙葉がダンスの準備をしていると、背後から聞き慣れた声がした。
「お姉ちゃーん!」
振り向くと、弟の和真が走ってきて、乙葉の腰に飛びついた。その後ろから、お母さんが小走りで追いかけてくる。
「和真、走っちゃだめって言ったでしょ。乙葉、邪魔してごめんね」
「ううん、大丈夫。来てくれてありがとう」
雫も和真の頭を撫でながら、「和真くん、久しぶり〜!大きくなったねぇ」と笑った。
「雫ちゃんも元気そうで何より。いつも乙葉と一緒にいてくれて、ありがとうね」
「ご無沙汰してます、乙葉ママ!」
「お姉ちゃん、応援してるからね!がんばって!」
和真はにこ、と笑って言った。
乙葉は少し照れくさそうに頷いた。「ありがとう、頑張るよ」
ダンスの出番。音楽が流れ、全員で一糸乱れぬフォーメーションに動く。
その中で、弟を見つけた乙葉は思わず手を振ってしまった。
「枢木さんが笑ってる……!」
観客席の男子たちの声に、乙葉はハッとしてしまった。
ああ、やってしまった――でも、和真が喜んでいる顔を見たら、それもまぁ、悪くないと思えた。
そして、最後の競技。選抜リレー。
現在の順位は総合2位。勝てば逆転優勝が決まるという場面。
女子のリレーが始まり、バトンは順調に渡り、乙葉が3人目として走り出した。
「……抜ける!」
乙葉の脚は地面を蹴るたびに風を裂く。3メートル、2メートル、1メートル――
トップに立って、雫にバトンを託す。
「任せたよ!」
「ありがと、絶対逃げ切る!」
雫は、まっすぐな脚でぐんぐんと前に出て、見事ゴールテープを切った。
歓声の中、雫と乙葉は笑顔でハイタッチを交わす。
「次は男子の番だね」と乙葉が言うと、稲葉が頷いた。
「ちゃんと受け取ったよ。勝つから!」
如月は無言で拳を突き出してくる。それに、乙葉は少し驚きながらも拳を合わせた。
男子のリレーが始まり、第一走者が転倒してしまう。しかし如月は冷静に3人を抜いて3位に浮上。
最後、稲葉が笑顔のまま2人をごぼう抜きしてトップでゴール。
「やったー!」とクラスメイトたちの歓声が響き渡る。
2年3組、優勝。
乙葉たちは互いにハイタッチしながら、青いハチマキを空に掲げた。
汗と埃と笑顔に包まれた一日。
仮面の奥に隠していた何かが、少しずつ、形を変えていくのを感じていた。
新緑が校庭の向こうで揺れ、夏の気配を先取りするかのようにセミの声が混じりはじめた朝。
ホームルームの時間、橘先生がいつものように静かに教壇に立った。
「今日の5限は、体育祭のエントリー種目を決めます」
その言葉に、教室が一斉にざわめいた。
体育祭。高校生にとっては一大イベント。
クラスカラーのTシャツを着て、応援をして、全力で走って――非日常が詰まった行事だ。
「体育祭、来たねぇ」と、後ろの席の雫が乙葉の肩を軽くつつく。
乙葉は、腕を組んで少し考えこみながらつぶやいた。
「何に出るか、あんまり考えてないけど……目立たないやつが良いかな」
「いやいやいや、乙葉足速いじゃん。リレー出なよ!」
「雫だって速いでしょ」
「もちろん出るよ。一緒に走ろ? 絶対勝てるし!」
そう言って、無邪気に笑う雫の顔はキラキラしていた。乙葉が何か言い返す前に、前方の教壇から橘先生の声が響く。
「ちなみに、選抜リレーは先日測った50m走のタイムで上位から男女それぞれ4人ずつ選出します。拒否はできません」
「……マジか」と呟く乙葉の肩を、雫がポンポンと叩いた。
「ドンマイ。強制っぽいね」
5限。教室はガヤガヤと騒がしかった。
エントリー用紙が配られ、種目を巡って談笑や交渉の声が飛び交う。
乙葉は空いたスペースに「リレー」と書くのを、仕方ないと諦めたように済ませた。
リレーの練習が始まった。
放課後、グラウンドの一角、トラックの白線がうっすらと陽に焼けて滲んでいる。
その横に立つのは、乙葉と雫――そして、稲葉蓮也と如月湊斗。
「2人もリレーに選ばれたの?」と雫が尋ねると、稲葉はにこやかに笑って答えた。
「そうなんだよ。お互い、頑張ろうね」
その後ろに立つ如月は、肩の力が抜けたような体勢で、面倒くさそうに髪をかき上げた。
「やれやれ……って顔してる」
乙葉は心の中でそう呟く。そして、その姿がどこか自分と重なる気がして、少しだけ口元が緩んだ。
「位置は……私は第3走者だったよね?」
「うん。乙葉が私にバトン渡すの!」と雫が楽しそうに言った。
「男子は、如月くんが3走、稲葉くんがアンカーだったかな」
「俺、最後かあ……プレッシャーすごそうだなぁ」と笑う稲葉に、如月は「お前が一番声出して応援されるタイプだろ」と呆れ気味に言う。
いつの間にか、4人は自然と会話をしていた。
体育祭前のある日。体育館の中では、女子のダンスの練習が行われていた。
「はあ……ダンス苦手なんだよね」と乙葉は小さく呟いた。
「えー、楽しいのに!」と雫が言いながら、お団子に結んだ髪を整える。
「せっかくだから髪、お揃いにしようよ。お団子にして!」
「え、なんで?」
「お祭りっぽくて可愛いじゃん。みんなもやってるし!」
乙葉は渋々了承し、雫に髪をまとめてもらった。
頭に巻いたクラスカラーの青いハチマキが、どこか特別な気持ちにさせた。
そして、迎えた当日。
校庭には応援の保護者の姿も見え、真夏日一歩手前の陽射しがグラウンドを照らしていた。乙葉がダンスの準備をしていると、背後から聞き慣れた声がした。
「お姉ちゃーん!」
振り向くと、弟の和真が走ってきて、乙葉の腰に飛びついた。その後ろから、お母さんが小走りで追いかけてくる。
「和真、走っちゃだめって言ったでしょ。乙葉、邪魔してごめんね」
「ううん、大丈夫。来てくれてありがとう」
雫も和真の頭を撫でながら、「和真くん、久しぶり〜!大きくなったねぇ」と笑った。
「雫ちゃんも元気そうで何より。いつも乙葉と一緒にいてくれて、ありがとうね」
「ご無沙汰してます、乙葉ママ!」
「お姉ちゃん、応援してるからね!がんばって!」
和真はにこ、と笑って言った。
乙葉は少し照れくさそうに頷いた。「ありがとう、頑張るよ」
ダンスの出番。音楽が流れ、全員で一糸乱れぬフォーメーションに動く。
その中で、弟を見つけた乙葉は思わず手を振ってしまった。
「枢木さんが笑ってる……!」
観客席の男子たちの声に、乙葉はハッとしてしまった。
ああ、やってしまった――でも、和真が喜んでいる顔を見たら、それもまぁ、悪くないと思えた。
そして、最後の競技。選抜リレー。
現在の順位は総合2位。勝てば逆転優勝が決まるという場面。
女子のリレーが始まり、バトンは順調に渡り、乙葉が3人目として走り出した。
「……抜ける!」
乙葉の脚は地面を蹴るたびに風を裂く。3メートル、2メートル、1メートル――
トップに立って、雫にバトンを託す。
「任せたよ!」
「ありがと、絶対逃げ切る!」
雫は、まっすぐな脚でぐんぐんと前に出て、見事ゴールテープを切った。
歓声の中、雫と乙葉は笑顔でハイタッチを交わす。
「次は男子の番だね」と乙葉が言うと、稲葉が頷いた。
「ちゃんと受け取ったよ。勝つから!」
如月は無言で拳を突き出してくる。それに、乙葉は少し驚きながらも拳を合わせた。
男子のリレーが始まり、第一走者が転倒してしまう。しかし如月は冷静に3人を抜いて3位に浮上。
最後、稲葉が笑顔のまま2人をごぼう抜きしてトップでゴール。
「やったー!」とクラスメイトたちの歓声が響き渡る。
2年3組、優勝。
乙葉たちは互いにハイタッチしながら、青いハチマキを空に掲げた。
汗と埃と笑顔に包まれた一日。
仮面の奥に隠していた何かが、少しずつ、形を変えていくのを感じていた。