先生×秘密
「ほんとうに見えたもの」
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文化祭前日の午後。
美術室には、色とりどりのポスターと、切れ端の画用紙、
絵の具の匂い。
(準備も残りわずか……)
美術室の隅には、すでに誰かがいた。
「……もっちゃん?」
あいかわらず、静かな顔で筆を動かす。
気づいてるはずなのに、反応が薄い。
「仕上がる?」と、声をかけると、
「うん。もうできてるんだけど、もう少しやりたい事あるから」
それだけ。
でも、邪魔されたくないわけでもなさそうだった。
コメも隣に座り、筆を取る。
(この子、ほんとにすごいな……)
淡いグラデーションの影、光の差し込み方、
ほんの数センチの中に物語がある。
「……うまいね」
「ありがとう」
もっちゃんは筆を止めずに返事した。
コメ
「……もうすぐ7時。そろそろ下校放送くるかな」
もっちゃん(筆を動かしながら)
「うん……でも、あとちょっと。終わるから、先に帰ってもいいよ」
コメ(かすかに笑って)
「いいの。もっちゃんといると、静かで楽」
もっちゃん、手を止めてコメの方をちらりと見る
もっちゃん
「…ありがとう コメちゃんもがんばってるから」
その“まっすぐな言葉”が、心にじんわり染みてくる
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そのとき、美術室のドアが開く。
白シャツの袖をまくった――渡部先生。
「……お、やってるね」
その声に、コメはどきっとする。
でも、もっちゃんはまったく動じない。
「これ、貼る前にニス塗っときたいなって。手伝ってもらえます?」
「おう、俺でよければ」
さっきまでの空気のまま、そこに先生が入る。
変わらない。
(変わらない……)
先生が隣に座っても、もっちゃんの空気は乱れない。
むしろ、リズムが合っているようにすら見えた。
ふと、視線をそらすと、
ポスターに描かれた人物のひとつが目に入った。
白いシャツ、優しい目元。
――渡部先生だった。
コメ
「……これ、先生?」
もっちゃん
「うん」
コメ
「そっくりだね」
もっちゃん
「私が描いたのじゃないよ。カオリちゃんが下絵描いて、私が塗ったの」
先生は、それを見てクスッと笑った。
「なんか、妙に気恥ずかしいな」
コメは、二人が微笑みあってるのをただ見ていた。
(勝てないな)
もっちゃんがベクトルを読めるわけじゃない。
特別にアプローチしてるわけでもない。
でも――
あの空気を乱せる自信がなかった。
(きっと先生、もっちゃんといると、心が楽なんだ)
筆を持った手が、止まった。
塗りかけのまま、ただポスターを見つめ、美術室を出た。
(教室、うるさいな)
教室へ戻ると、文化祭の準備に追われるクラスメイトたち。
段ボールを切る音、笑い声、ケンカ寸前の言い合い――
騒がしいけれど、自分に向けられた矢印は、ほとんどない。
でも、それが逆につらい。
孤立してるんじゃない。
“自分の存在が薄い”だけ。
「コメー!こっち手伝ってー!」
パーンと、しげちゃんの声が教室に響いた。
矢印を気にしない、その大らかな声が救いだった。
「……何すればいい?」
「おっそーい!人手が足りず、机の配置グチャグチャ!」
「はいはい。」
「そこの端、もう気合いで持って」
コメが肩で笑うと、しげちゃんがにやりとした。
「なんかあった?」
ギクリ。
「もっちゃんのとこ行ってから、変じゃん?」
「……」
(言うつもり、なかったのに)
「先生と……すごく、似てたの。空気が」
「見てるだけで、無理って思った」
「……あー、それかぁ」
しげちゃんは急に声のトーンを落とす。
「でもさ、あたしはあの空気、冷たく見えたけどな」
「静かっていうより、“誰も入れない”って感じで」
「……そっか」
「それにさ、コメと先生が一緒にいるときの方が、
あったかいって思ったよ、私は」
しげちゃんの矢印は、やっぱり明るくてまっすぐだった。
でも、その“健やかさ”が、逆に泣けた。
「ありがと」
「よくわかんないけど、コメには笑っててほしいなーって思ってるよ」
しげちゃんが腕まくりして、机をズンと動かす。
――その音が、どこか“壊れていく音”に重なった。
(壊れてるのは、私の方だ)
それでも。
壊れながらも進んでいくしかない。