敵将に拾われた声なき令嬢、異国の屋敷で静かに愛されていく
「そして努力は報われ、剣士の道を与えられた。俺は幸運が重なり、命拾いした。だが、何度もセレバルを離れたことを後悔したよ」
『なぜ……ですか?』
ラスはほんの少し身をかがめてティナの瞳をのぞき込む。その薄紫の瞳をじっと見つめ、わずかに目を細める。
(なに……かしら?)
ティナは目を覆いたくなった。ひどく珍しいモンレヴァル特有の色。カタリーナに疎まれ、レオニスを遠ざけた目。彼はこの色をどんな思いで眺めるのか……。
「俺は一度、父に会いに行ったんだ」
驚いたようにティナがゆっくりまばたきをすると、ラスは唇を奇妙に歪めたまま、うなずいた。
「母が父を語るときは、とても誇らしげだった。せめて、母の死を伝えたかった。もし、セレバル一の剣士だという母の話が本当なら……と、王宮を訪ねたんだ」
ラスは悲しげにまぶたを伏せる。
「だが、ただのガキ一人で門をくぐれるわけがない。名乗ることもできなかった。門前で追い払われ、兵士に殴られ、血を流した。それでも、俺は必死に叫んださ。死んだ母の死を伝えてくれって。だけど、かえってきた答えは、『貧民街の子どもは王宮に足を踏み入れるな』だった」
悲しみは怒りに変わる。当時を思い出したように、悔しさが全身を覆い尽くす。ラスの目には力がみなぎり、彼はそこに流れる血を憎むように、手のひらをじっとにらみつけた。
「俺は驚いたよ。鼻水をこすり取ったつもりの手のひらが真っ赤に濡れて、汗だと思ってぬぐったひたいから、見たこともない量の血が流れてたんだからな」
壮絶な経験に震えあがるティナは、ぎゅっと目を閉じた。そのまぶたの裏に、ラスととある少年の姿が重なった。
兵士に殴られ、蹴られ、それでも立ち向かう少年──。やがて、少年は立ち上がれなくなり、兵士たちは笑いながら城門の中へと入っていった。
ぼろぼろになった少年は、しばらくすると石畳の上をふらふらと歩き出した。ティナはレオニスの目を盗んで馬車を抜け出した。
馬車のかたわらに倒れ込んだ少年は、ボロ切れのようだった。白い石畳には、点々と赤い血が染みていた。少年のそばを通り過ぎる大人たち。誰もが見て見ぬ振りをし、誰もが助けようと手を差し伸べなかった。
(助けてっ、誰かっ……)
ティナだけが、声にならない声で叫んだ。そのとき、少年がぴくりと顔をあげ、こちらを見た。怒りに満ちたグレーの目が、この世を恨んでいるかのように見開かれていた。
ティナはおびえた。しかし、おびえるのは、少年も同じだった。燃えるような怒りを浮かべた瞳の中に、幼い獣のような警戒心がむき出しになっていた。それでも、助けなければと、ティナは胸もとに手を伸ばし──。
「ティナ、どうした?」
突然聞こえたラスの声に驚いて、ティナの肩がびくっと震えた。木製ボードがひざから滑り落ち、カタンと音を立てて、床に転がる。
「ティナ……?」
こちらを心配そうにのぞき込むラスを、ティナは見つめた。
(助けなければ……)
そう思っていた。しかし、ティナはすぐにレオニスによって馬車へ連れ戻され、少年がどうなったのか知るすべはなかった。それどころか、何度か冬を越すたびに、少年のことは忘れていった。
あの日の少年は生きていた。ティナは唇をかすかに震わせた。
「……だ、大丈夫」
それは、震える小さな声だった。でも、確かに、自分の声だった。
「いま、声が……」
ラスが驚きに目を見開いた瞬間、ティナは胸をおさえた。苦しかった。カタリーナの冷たい眼差しが胸をさす。少年をあざ笑った兵士の笑い声が脳内を駆け巡る。大人たちは無力な子どもに、なぜ、あんなにも残酷なのか──。
「もう……大丈夫だから」
ティナはラスにすがり、あの日、少年にかけたかった言葉を吐き出した。
「ティナ……?」
でも、遅いのかもしれない。いま、目の前にいる青年はもう、ティナの言葉を待ってはいない。あの日の出来事は、お互いの記憶から薄れ、強く生きるための踏み台としての役割を終えていた。
(あのとき、しゃべることができていたら、ラスフォード様は……!)
叫び出したい思いがあふれてくるが、呼吸がうまくできない。前かがみになると頭がふわりと揺れ、そのままバランスを崩し、椅子から落ちそうになる。
とっさに、ラスの腕が伸びてきて腰に回る。太くてたくましい腕は熱かった。人の体温をこれほどまで近くで感じたことがなかった。生きている。それを感じさせる熱さに、ティナは安堵した。
(生きていてくれて、よかった……)
気が緩んだら、体からも力が抜けて、ティナは彼の腕の中で意識を手放した。
『なぜ……ですか?』
ラスはほんの少し身をかがめてティナの瞳をのぞき込む。その薄紫の瞳をじっと見つめ、わずかに目を細める。
(なに……かしら?)
ティナは目を覆いたくなった。ひどく珍しいモンレヴァル特有の色。カタリーナに疎まれ、レオニスを遠ざけた目。彼はこの色をどんな思いで眺めるのか……。
「俺は一度、父に会いに行ったんだ」
驚いたようにティナがゆっくりまばたきをすると、ラスは唇を奇妙に歪めたまま、うなずいた。
「母が父を語るときは、とても誇らしげだった。せめて、母の死を伝えたかった。もし、セレバル一の剣士だという母の話が本当なら……と、王宮を訪ねたんだ」
ラスは悲しげにまぶたを伏せる。
「だが、ただのガキ一人で門をくぐれるわけがない。名乗ることもできなかった。門前で追い払われ、兵士に殴られ、血を流した。それでも、俺は必死に叫んださ。死んだ母の死を伝えてくれって。だけど、かえってきた答えは、『貧民街の子どもは王宮に足を踏み入れるな』だった」
悲しみは怒りに変わる。当時を思い出したように、悔しさが全身を覆い尽くす。ラスの目には力がみなぎり、彼はそこに流れる血を憎むように、手のひらをじっとにらみつけた。
「俺は驚いたよ。鼻水をこすり取ったつもりの手のひらが真っ赤に濡れて、汗だと思ってぬぐったひたいから、見たこともない量の血が流れてたんだからな」
壮絶な経験に震えあがるティナは、ぎゅっと目を閉じた。そのまぶたの裏に、ラスととある少年の姿が重なった。
兵士に殴られ、蹴られ、それでも立ち向かう少年──。やがて、少年は立ち上がれなくなり、兵士たちは笑いながら城門の中へと入っていった。
ぼろぼろになった少年は、しばらくすると石畳の上をふらふらと歩き出した。ティナはレオニスの目を盗んで馬車を抜け出した。
馬車のかたわらに倒れ込んだ少年は、ボロ切れのようだった。白い石畳には、点々と赤い血が染みていた。少年のそばを通り過ぎる大人たち。誰もが見て見ぬ振りをし、誰もが助けようと手を差し伸べなかった。
(助けてっ、誰かっ……)
ティナだけが、声にならない声で叫んだ。そのとき、少年がぴくりと顔をあげ、こちらを見た。怒りに満ちたグレーの目が、この世を恨んでいるかのように見開かれていた。
ティナはおびえた。しかし、おびえるのは、少年も同じだった。燃えるような怒りを浮かべた瞳の中に、幼い獣のような警戒心がむき出しになっていた。それでも、助けなければと、ティナは胸もとに手を伸ばし──。
「ティナ、どうした?」
突然聞こえたラスの声に驚いて、ティナの肩がびくっと震えた。木製ボードがひざから滑り落ち、カタンと音を立てて、床に転がる。
「ティナ……?」
こちらを心配そうにのぞき込むラスを、ティナは見つめた。
(助けなければ……)
そう思っていた。しかし、ティナはすぐにレオニスによって馬車へ連れ戻され、少年がどうなったのか知るすべはなかった。それどころか、何度か冬を越すたびに、少年のことは忘れていった。
あの日の少年は生きていた。ティナは唇をかすかに震わせた。
「……だ、大丈夫」
それは、震える小さな声だった。でも、確かに、自分の声だった。
「いま、声が……」
ラスが驚きに目を見開いた瞬間、ティナは胸をおさえた。苦しかった。カタリーナの冷たい眼差しが胸をさす。少年をあざ笑った兵士の笑い声が脳内を駆け巡る。大人たちは無力な子どもに、なぜ、あんなにも残酷なのか──。
「もう……大丈夫だから」
ティナはラスにすがり、あの日、少年にかけたかった言葉を吐き出した。
「ティナ……?」
でも、遅いのかもしれない。いま、目の前にいる青年はもう、ティナの言葉を待ってはいない。あの日の出来事は、お互いの記憶から薄れ、強く生きるための踏み台としての役割を終えていた。
(あのとき、しゃべることができていたら、ラスフォード様は……!)
叫び出したい思いがあふれてくるが、呼吸がうまくできない。前かがみになると頭がふわりと揺れ、そのままバランスを崩し、椅子から落ちそうになる。
とっさに、ラスの腕が伸びてきて腰に回る。太くてたくましい腕は熱かった。人の体温をこれほどまで近くで感じたことがなかった。生きている。それを感じさせる熱さに、ティナは安堵した。
(生きていてくれて、よかった……)
気が緩んだら、体からも力が抜けて、ティナは彼の腕の中で意識を手放した。