敵将に拾われた声なき令嬢、異国の屋敷で静かに愛されていく
「俺は十五までセレバルにいたが、セレバル出身だとは思ってない。母は、ディアンナの出身でね。旅商人のキャラバンで、踊り子をしていた人だ」

 無造作に椅子を引くと、ラスは投げやりに腰を下ろす。わずかに目線をさげる彼は、いつになく深刻な様子で、ティナは戸惑いながら木製ボードを胸に抱き寄せた。

 聞いてはいけないことを尋ねたのではないか。窓の外では、待ち侘びた春を喜ぶ薄紫のライラックの花が、風に吹かれてうれしげに揺れている。そんな穏やかさとはかけ離れた重々しい空気に部屋は満たされた。

 マギーは丁寧に頭をさげると、部屋を出ていった。扉が静かに閉じ、ラスがふたたび口を開く。

「ディアンナは、セレバルより遥か西にある農村地だ。母の両親……、つまり、俺の祖父母は農民で、あまり豊かな生活はしていなかったらしい。母は家計を助けるためにキャラバンの一員になった。記憶の中の母はとても美しい人でね、大国であるセレバルまで行けば、たちまち人気者になって裕福になれると信じていたんだ」

 ラスも目鼻立ちの整った、とても美しい容貌をしている。ティナは踊り子を実際に見たことはなかったが、本の中で見た踊り子の姿が、彼の横顔と重なった。想像するに、それはそれは人を惹きつける魅力のある女性だったのだろう。

『お母さまは?』

 おずおずとボードを差し出すと、ラスは隣に椅子を引き寄せ、ティナに座るよう促す。

「亡くなったよ。俺が、十五のときに」

 ティナは小さく息を飲む。だから、ルヴェランへ来たのだろうか。……いや、それは早計だろう。彼を庇護すべき大人はもうひとりいるはずだ。椅子に腰をかけ、迷いながらボードに炭筆の先を落とす。

『お父さまは?』

 その文字を見て、ラスは短く息を吐き、かすかに笑った。

「母はよくしゃべり、よく笑い、冗談ばかり言う人だった。『おまえの父はセレバル一の腕の立つ剣士だ』なんて、夢物語も聞かされたよ」
『では、お父さまのことは……』
「知らない。会ったこともないさ。いや……、会ってもくれなかったんだ」

 感情を殺したような冷たい目をしたラスは、ひどく冷静な声音で吐き出した。それでも、怒りを隠し切れない様子で、ひざの上で悔しげにこぶしを握った。

 母はディアンナ出身の踊り子、父はセレバルの剣士。しかし、ラスはセレバル出身だなんて思っていない。それは、父に対する反抗心だろうか。

 ティナは目を伏せ、ためらいながらボードに書いた。

『ひとりで、ルヴェランへ?』

 ラスのほおがひきつるようにわずかに上下する。十五で母を亡くし、ひとりでルヴェランへ渡ったのだとしたら、それは想像を絶するものだっただろう。

 ティナはよく知っていた。セレバルの王都ダルハインにある関所から、ルヴェランの王都ミュルセールまでの過酷な道のりを──。言葉に表せない彼の苦悩が伝わってくるようで、胸が苦しくなる。

 ティナはあわてて、ボードの炭をこすり取った。その文字は簡単に消え去る。ラスの苦しい記憶も同じように消せたら、どれほどいいだろうか。

「……俺は、幸運だった」

 ラスは窓の外へと視線を移した。先ほどまで見せていた怒りは鎮まり、グレーの瞳にはどこか懐かしさと、憂いが浮かぶ。

「バルドとは、ダルハインで出会ったんだ。ボロボロになった俺をルヴェランまで運んだのは、あいつだ。あいつは卑怯で、俺を孤児院に放り込んだ嫌なやつだったが、命の恩人でもある」

 質屋のバルドのいやらしい笑みを思い出す。憎らしいが憎めず、気を許せない関係だが、切れない縁で結ばれているのだろうか。ティナは言葉を選ぶように、もう一度炭筆を手に取った。

『孤児院で、ずっと暮らしていたの……?』
「俺は貧民の子だからな。学も何もなく、孤児院で働くマギーの兄から教養を学び、十七でゲレール侯を紹介された。侯爵のもとでは騎士道を学び、がむしゃらに働いた。過酷な狩猟にもめげなかった。生きるためにはなんでもした。ティナにはおぞましく感じることも……」

 まるで、煌びやかな世界で生きてきた公爵令嬢であるフロレンティーナ・カリストとはまったく違うとあざけるように、彼は小さく笑った。
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