敵将に拾われた声なき令嬢、異国の屋敷で静かに愛されていく
 次第に活気のある声が聞こえてくる。厨房の前まで来たところで、ラスが静かに足を止めた。ティナも息をひそめて、その隣に立つ。

 夕食の準備で忙しい厨房の中では、料理長の軽快な指示が飛び、数人の料理人たちが慌ただしく動き回り、焼きあがったばかりのミートパイが並べられていく。

 香ばしい匂いが漂う中、ラスはスッと厨房へ足を踏み入れる。そのただならぬ気配に、料理人たちが驚いてこちらを見た。

「だ、旦那様……! ただいま、ご準備を……っ」

 誰かがあわてた様子で声をあげる。

「作業をやめ、その場から動くな」

 ラスが低い声を発すると、ぴたりとみんなの動きが止まる。ただひとり、料理長だけが、奥から歩み寄ってくる。

「旦那様、どうされましたか?」
「何か変わったことは?」

 料理長はゆっくり周囲を見まわして答える。

「これといって、特にはございませんが……」
「見慣れないメイドが出入りしていたはずだが?」
「まさか……」

 料理長が驚いた様子でつぶやくと、ほかの料理人たちも顔を見合わせ、次々に首を横に振る。どうやら彼らは、ティナとすれ違ったメイドを見ていないらしい。

 ラスがティナを振り返る。その目は何かを訴えかけるようで、気づくと声をあげていた。

「わ、私は……若いメイドを見ました。本当です……! みなさんは荷馬車から荷物をおろす手伝いをしていましたし、あの時間はまだ、厨房には誰もいなかったはずです」
「疑ってはいない」

 眼光鋭いまま、ラスは言うと、厨房の端に立つマギーへと目を向ける。

「メイドの管理はおまえの仕事だが、何か気づいたことは?」
「……いえ、何も。今日は新しいメイドを雇うというので、部屋の片付けや衣類の準備に追われていて……、申し訳ございません。朝食準備の手伝いは、ほかの者に任せていました」

 マギーは、勢いよく頭をさげた。ラスはゆっくりと厨房の中を歩き出す。ひとりひとりの顔をじっくりと確認していく。

「みな、昔から俺に忠義を誓う者たちばかりだ。ここにいる者が裏切り者でないなら、疑うべきは……」

 ごくりと料理長がのどを鳴らしたとき、ラスは調味料の並ぶ棚へと目を移す。

「料理長、そこにある調味料はすべて見覚えのあるものか?」
「は、はいっ。いま、確認を……」

 料理長はまろびころびつしながら、棚に駆け寄ると、一つずつ手に取って確認していく。そして、すべてを確認したあと、ハッとマギーの手もとを見つめる。その視線をめざとく見逃さなかったラスは、一気にマギーへ詰め寄った。

「それは?」
「えっ、……これは、本日届いたばかりのシナモンです。ルヴェランでは大変珍しいものらしく……」
「では、そのシナモンの味を知る者はここにいないのだな?」
「それは……」

 マギーが目線を料理長へ向けると、彼が代わりに答える。

「さようでございます。ちょうどいま、ミートパイが焼き上がり、ふりかける前に味見をするところでして……」
「マギー、それを寄越せ」
「ラス様、何を……」

 戸惑うマギーから、ラスは陶器の小瓶を奪い取り、蓋を開けると鼻を近づけた。彼の目が、初めて見るほど鋭く冷たくなる。

 ティナが息を飲んで見守る中、ラスはほんの数秒、目を閉じたあと、低くつぶやく。

「これは……シナモンではない」
「なんですと? 届いたときは確かに、シナモンの香りが……」

 どよめきが起きる中、料理長が声をあげた。ティナもまた、黙ってはいられなかった。

「ラスフォード様、そちらのシナモンが注文したものに間違いないか確認したのは、私と料理長です。確かに、シナモンの強い香りがしました。シナモンではないなんて、そんな……」
「ならば、なおさらおかしい。これはセロアだ。セレバル南部に自生する毒草から作られた粉末。シナモンに似ているが、香り高くはない」
「セロア……」

 ティナはぽつりとつぶやく。聞いたことがあった。セロアは何気ない山道に咲く可憐な花だが、その根には毒があり、決して触れてはならないと。

「この瓶に触れた者はいないか? セロアは遅効性の毒物だ。すぐに薬師を呼ぼう。体調に異変のある者はすぐに申し出よ」

 ラスは落ち着いてそう話すと、真っ青になる料理長に歩み寄る。彼はハッとし、ラスの前へ土下座した。

「申し訳ございません、旦那様っ。厨房を預かるものがみすみす不審者の侵入を許し、シナモンのすり替えにすら気付きませんで。旦那様がお気づきにならなければ、フロレンティーナ様を取り返しのつかない危険な目にさらすところでした……」
「顔をあげろ。おまえにはまだやってもらわねばならないことがある。厨房内すべてに毒物が紛れていないか確認しろ。謝るひまがあるなら、さっさとやれっ!」

 殺気立つラスは、マギーへ歩み寄る。

「マギーはライモンドとともにすべてのメイドを集め、不審な者を見ていないか確認しろ。まだ屋敷に潜んでいる可能性は捨てきれない。じゅうぶん気をつけてやるんだ」
「はい、ラス様。おまかせください」

 マギーはすぐに厨房を駆け出ていく。その後ろ姿を見送る彼は、手の中の小瓶を強く握りしめる。

「ラスフォード様……」

 そっとラスの腕に触れると、彼は肩の力を抜いた。

「すまない。俺の気づきが遅ければ、あなたが口にしていたかもしれなかった」

 低くかすれた声に、ティナは静かに首を振る。

「ラスフォード様が気づいてくださったから、みなさんも無事だったのです。ラスフォード様には、大変な感謝を……」

 その声もまた、震えていた。本当に、刺客が来ていた。まぶたを閉じたらルシアンが浮かび、彼の怒りに燃える琥珀のまなざしににらまれたような気がして、ティナはそっとラスの腕にすがるようにひたいを寄せた。
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