敵将に拾われた声なき令嬢、異国の屋敷で静かに愛されていく
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「私は、あのときの少年がどうなったのか、何も知りませんでした。でも、ラスフォード様がこうして目の前におられるということは、私の渡したアルジャン金貨がほんの少しでも役に立ったのではないかと信じてやまないのです」
今になって思えば、あれは無責任な行動だった。自身をなぐさめるための言葉を聞いたラスにどう思われるか、ティナは不安で仕方なかった。
じっと見つめると、ラスはゆっくりとまばたきをした。
「あなたは、俺だと気づいていたのか」
「ご迷惑……でしたか?」
ティナがおそるおそるうかがうように尋ねると、ラスは眉をひそめた。
「あのときの俺は、貴族の娘は貧民街の住人を軽蔑していると思っていた。だから、あなたが無言で金貨を差し出したとき、意地悪に渡すふりをしたのだと……」
「ち、違います。私は助けを呼ぼうとしました。でもできなくて……、アルジャン金貨を渡せば、誰かが助けてくれるのではないかと思ったんです」
「あのような高価なものを持っていたら、逆効果になるとは思わなかったのだな」
浅はかな行動をあきれたように笑ったラスの前では、どんな言い訳も通用しない。
新しくやってきた母であるカタリーナから愛されず、苦しい日々を送っていた幼い自身を重ね、少年だったラスを不憫に感じていたなんて身勝手だろう。けれど、ティナは言わずにはいられなかった。
「私はただ……、理不尽な目に遭うラスフォード様に、生きていてほしいと思っていたんです」
「なぜ、そこまでする必要がある? あなたの目には、ただの汚らしい子どもにしか見えなかったはずだ」
首を左右に振ると、ラスの目がふっと優しくやわらぐ。
「……以前なら、そう尋ねたかもしれないが、アリアーヌでのあなたを見ていたらわかる。あなたは誰にでも慈悲を施せる人だ。おそらく、理由などないのだろう。困っているものに、あなたは手を差し伸べただけだ」
「ご迷惑でしたか?」
ティナはもう一度尋ねた。すると、ラスは首をゆっくりと左右に振り、まぶたを伏せた。
「あのメダルのことを調べるうちに、俺は気づいた。貴族は我が子にメダルを残すならわしがあることを。あなたはいとも簡単に身分を明らかにするメダルを手放したが、俺はそれすらもらえなかった事実に執着し、父親に恨みを持っていた。あなたを見ていると、今では小さなことだったと思える」
貴族であれば、大切な家族を守れたかもしれない。貧民街でひっそりと亡くなった母を思い、ラスは何度も父を恨んだのかもしれない。
「ラスフォード様のお父さまは、貴族なのですか?」
セレバルで一番強い剣士。それが誰なのか、ティナにもよくわからない。
「あれはもう死んだ。本当に父なのか、確かめるすべはなくなった。たった一枚の金貨でも残してくれれば、浮かばぬ思いが少しは晴れたかもしれないが、……今は何も思うことはない」
「それでも……ラスフォード様はご立派な聖ルヴェラン騎士団長様です」
消沈するラスを励ますように言うと、彼は珍しく、くすりと笑った。
「それを言うなら、あなたは正統なモンレヴァルだ。俺がそうであるように、もう何も嘆く必要はない」
ラスは不意に、羊皮紙が山積みされた机へ近づいた。
「あの金貨は、いつかあなたに返さなければと思っていた」
そうつぶやきながら引き出しを開き、中からごそごそと光るものを取り出す。
鎖のついた小さな金貨。窓から差し込む光で、アルジャン国王の横顔がキラキラと輝き、ティナははっと息を飲む。
「持って……いたのですか?」
「あなたをセレバルの関所で助けたあの日、オブリの質屋へ行き、返してもらっていたのだ。あなたにどう話すか迷ううちに、渡しそびれてしまっていた」
「そうだったのですね。もう返ってこないと思っていたので、あまり思い悩まないでください」
そう伝えると、彼は負けた顔をする。ティナの許す心はあまりにも深く、太刀打ちできないというように。
「あのとき、あなたは迷わず俺を助けてくれた。だから俺は、雪の中で倒れるあなたを見つけたとき、今度は自分が助ける番だと思った」
ラスはティナの髪にそっと触れると、手を首の後ろに回した。彼の大きな指先では、小さな金具がもどかしそうで、ティナがふふふと笑うのをうらめしそうに見ながら、彼はやっとのことメダルを首にかけた。
「あまり、騎士をからかうものじゃない」
照れくさそうにつぶやくラスをよそに、ティナはメダルを手に取り、光を受けてキラキラ輝くのを楽しむように、何度も傾けた。
もう二度と戻ってこないと思っていた。母の優しい思い出が蘇ってくるようでうれしかった。
「ラスフォード様」
「なんだ?」
ティナはじっとラスを見上げる。澄んだ瞳に臆するように彼は目をそらそうとしたが、さらなるまっすぐな声で語りかける。
「私はあなたほどに紳士な方を知りません。この金貨が戻っても、あなた以外の方と結婚することはないでしょう」
そっと笑むと、肩から髪が滑り落ちる。すべてこぼれ落ちてしまうわけでもないのに、ラスはあわてるように肩に触れ……、そのまま引き寄せた。
唇が重なり合ったのは、偶然ではなかった。初めて触れた男の人の唇に、ティナは驚いてまばたきをした。ぶ厚い唇がとても不器用に押し付けられる。しかし、嫌ではなかった。むしろ、ずっと触れたかったのではないか。そう感じられるほどに胸ははち切れそうだった。
「こんな横暴な態度でしか愛を伝えられない……」
いきなり身を引いたラスが、まぶたを伏せて苦しげに息をつく。まるで、自分を叱りつけるような表情をしていた。ティナの肩に触れたままの指先には、押し寄せる後悔で力が入っていた。
「言葉ではうまく……伝わらないこともありますよね……?」
「ティナ……」
何度もラスに手紙を書いた。話せるようになってからも、素直な気持ちを伝えてきたはずだった。それでも──。
「あの……実は……」
ティナは胸の前で指をからめ、ふしぎそうな顔をする彼から、赤らむほおを隠すように視線をそらす。
「ずっとあなたは不機嫌でしたので、……私の愛が伝わっていないのではと心配していたんですよ」
「私は、あのときの少年がどうなったのか、何も知りませんでした。でも、ラスフォード様がこうして目の前におられるということは、私の渡したアルジャン金貨がほんの少しでも役に立ったのではないかと信じてやまないのです」
今になって思えば、あれは無責任な行動だった。自身をなぐさめるための言葉を聞いたラスにどう思われるか、ティナは不安で仕方なかった。
じっと見つめると、ラスはゆっくりとまばたきをした。
「あなたは、俺だと気づいていたのか」
「ご迷惑……でしたか?」
ティナがおそるおそるうかがうように尋ねると、ラスは眉をひそめた。
「あのときの俺は、貴族の娘は貧民街の住人を軽蔑していると思っていた。だから、あなたが無言で金貨を差し出したとき、意地悪に渡すふりをしたのだと……」
「ち、違います。私は助けを呼ぼうとしました。でもできなくて……、アルジャン金貨を渡せば、誰かが助けてくれるのではないかと思ったんです」
「あのような高価なものを持っていたら、逆効果になるとは思わなかったのだな」
浅はかな行動をあきれたように笑ったラスの前では、どんな言い訳も通用しない。
新しくやってきた母であるカタリーナから愛されず、苦しい日々を送っていた幼い自身を重ね、少年だったラスを不憫に感じていたなんて身勝手だろう。けれど、ティナは言わずにはいられなかった。
「私はただ……、理不尽な目に遭うラスフォード様に、生きていてほしいと思っていたんです」
「なぜ、そこまでする必要がある? あなたの目には、ただの汚らしい子どもにしか見えなかったはずだ」
首を左右に振ると、ラスの目がふっと優しくやわらぐ。
「……以前なら、そう尋ねたかもしれないが、アリアーヌでのあなたを見ていたらわかる。あなたは誰にでも慈悲を施せる人だ。おそらく、理由などないのだろう。困っているものに、あなたは手を差し伸べただけだ」
「ご迷惑でしたか?」
ティナはもう一度尋ねた。すると、ラスは首をゆっくりと左右に振り、まぶたを伏せた。
「あのメダルのことを調べるうちに、俺は気づいた。貴族は我が子にメダルを残すならわしがあることを。あなたはいとも簡単に身分を明らかにするメダルを手放したが、俺はそれすらもらえなかった事実に執着し、父親に恨みを持っていた。あなたを見ていると、今では小さなことだったと思える」
貴族であれば、大切な家族を守れたかもしれない。貧民街でひっそりと亡くなった母を思い、ラスは何度も父を恨んだのかもしれない。
「ラスフォード様のお父さまは、貴族なのですか?」
セレバルで一番強い剣士。それが誰なのか、ティナにもよくわからない。
「あれはもう死んだ。本当に父なのか、確かめるすべはなくなった。たった一枚の金貨でも残してくれれば、浮かばぬ思いが少しは晴れたかもしれないが、……今は何も思うことはない」
「それでも……ラスフォード様はご立派な聖ルヴェラン騎士団長様です」
消沈するラスを励ますように言うと、彼は珍しく、くすりと笑った。
「それを言うなら、あなたは正統なモンレヴァルだ。俺がそうであるように、もう何も嘆く必要はない」
ラスは不意に、羊皮紙が山積みされた机へ近づいた。
「あの金貨は、いつかあなたに返さなければと思っていた」
そうつぶやきながら引き出しを開き、中からごそごそと光るものを取り出す。
鎖のついた小さな金貨。窓から差し込む光で、アルジャン国王の横顔がキラキラと輝き、ティナははっと息を飲む。
「持って……いたのですか?」
「あなたをセレバルの関所で助けたあの日、オブリの質屋へ行き、返してもらっていたのだ。あなたにどう話すか迷ううちに、渡しそびれてしまっていた」
「そうだったのですね。もう返ってこないと思っていたので、あまり思い悩まないでください」
そう伝えると、彼は負けた顔をする。ティナの許す心はあまりにも深く、太刀打ちできないというように。
「あのとき、あなたは迷わず俺を助けてくれた。だから俺は、雪の中で倒れるあなたを見つけたとき、今度は自分が助ける番だと思った」
ラスはティナの髪にそっと触れると、手を首の後ろに回した。彼の大きな指先では、小さな金具がもどかしそうで、ティナがふふふと笑うのをうらめしそうに見ながら、彼はやっとのことメダルを首にかけた。
「あまり、騎士をからかうものじゃない」
照れくさそうにつぶやくラスをよそに、ティナはメダルを手に取り、光を受けてキラキラ輝くのを楽しむように、何度も傾けた。
もう二度と戻ってこないと思っていた。母の優しい思い出が蘇ってくるようでうれしかった。
「ラスフォード様」
「なんだ?」
ティナはじっとラスを見上げる。澄んだ瞳に臆するように彼は目をそらそうとしたが、さらなるまっすぐな声で語りかける。
「私はあなたほどに紳士な方を知りません。この金貨が戻っても、あなた以外の方と結婚することはないでしょう」
そっと笑むと、肩から髪が滑り落ちる。すべてこぼれ落ちてしまうわけでもないのに、ラスはあわてるように肩に触れ……、そのまま引き寄せた。
唇が重なり合ったのは、偶然ではなかった。初めて触れた男の人の唇に、ティナは驚いてまばたきをした。ぶ厚い唇がとても不器用に押し付けられる。しかし、嫌ではなかった。むしろ、ずっと触れたかったのではないか。そう感じられるほどに胸ははち切れそうだった。
「こんな横暴な態度でしか愛を伝えられない……」
いきなり身を引いたラスが、まぶたを伏せて苦しげに息をつく。まるで、自分を叱りつけるような表情をしていた。ティナの肩に触れたままの指先には、押し寄せる後悔で力が入っていた。
「言葉ではうまく……伝わらないこともありますよね……?」
「ティナ……」
何度もラスに手紙を書いた。話せるようになってからも、素直な気持ちを伝えてきたはずだった。それでも──。
「あの……実は……」
ティナは胸の前で指をからめ、ふしぎそうな顔をする彼から、赤らむほおを隠すように視線をそらす。
「ずっとあなたは不機嫌でしたので、……私の愛が伝わっていないのではと心配していたんですよ」