敵将に拾われた声なき令嬢、異国の屋敷で静かに愛されていく
(どうして……)

 ティナはとっさにハインを見た。

 彼はルシアンと同じぐらいの年齢だろう。ここへ来るまでの間に、ルシアンとは士官学校で知り合い、懇意の仲と聞いていた。その彼なら、ルシアンの暴走を止められると期待したが、無理だったのだろうか。

 目を合わせると、ハインはわずかに表情を変えた。それは、ティナをあわれんでいるような、同情の目だった。

「宰相補佐殿、ご発言をどうぞ」

 進行役の議長であるセレバルの老高官がうながすと、ラスは身を引く。

「では、申し上げますと、ルヴェランの主張に、我々は対話の意義が見出せません。これ以上は時間の浪費でしょう。本日はこれまで。……よろしいですね?」

 ルシアンが落ち着いた様子で話すと、ルヴェラン側の使節団員たちがざわめいた。交渉はまだ始まったばかり。まさか、早々に打ち切られるとは想像していなかったのだろう。

「次の交渉までに、もっと実のある提案をお願いしますよ」

 まるで、交渉決裂の責任をルヴェランに負わせるかのように言うと、ルシアンは立ち上がる。

(本気で帰ってしまうのかしら……)

 紛争が起きてから、もう何度も交渉は重ねている。父は理想とする解決方法を持っていたが、帰宅するたび、「折り合うはずがない……」と嘆いていた。その疲弊する姿を、ティナはいつも見守るしかできなかった。

 そして、カタリーナが小さなセレスを連れて公爵邸へ現れ、「今日からあなたの母親です」と冷たく言い放った日から、ティナは言いたいことも言えずに過ごしてきた。

 しかし、今は違う。正当な参加者として、まさに今この場で、意見を表明する機会を与えられているのだ。

「……お、……お待ちくださいっ!」

 羊皮紙に書き記す時間はなかった。帰ろうと背を向けるルシアンを引き止めなければと、とっさに開いた口から、驚くほどに高く透き通った声が出た。

(え……)

 ひどく険しい表情でルシアンが振り返る。口がきけるのか? 彼の顔には、そう書いてあるようだった。

 自分でも驚いて、口もとに手をあてる。しかし、それも一瞬だった。

 ティナはすかさず立ち上がり、テーブルに手をついて身を乗り出す。

「ご発言をお許しくださいっ。父……カリストの名代として申し上げます! 長く続くこのたびの紛争……、どれほどの血が流されたでしょうか。民が何を望み……」

 よどみなく、つらつらとあふれた。紛争を解決したい思い、話せる喜び、父の使命を背負う責任感……いろいろな思いが自分を奮い立たせている。そう実感できるほど、高揚していた。

「黙りなさいっ! フロレンティーナ・カリスト!」

 ルシアンがティナの肩をつかむ。握りつぶしたメモを地面に叩きつけ、それを踏みにじりながら、ティナの顔面に顔を近づけ凝視する。

「あなたは声を失っていたのではありませんか。私を……いいえ、陛下を謀ってここへ来たのですか」
「い……いえ、そんなつもりは……」
「カリスト公が病気だというのも、嘘ですか」
「本当ですっ。しかし、父は和平を望んで……」
「では、カリスト公ならば、先ほどの要求を飲むはずだと?」

 ルシアンの鋭い目に、足が震えた。彼はルヴェランの要求をまったく受け入れる気がない。そればかりか、交渉の余地も持たない。折り合うはずがないと嘆いた父は、ルヴェランではなく、ルシアンに対してだったのだ。

「……違います。先ほどの提言は、私の一存です」

 父は平和を望んでいる。だからこそ、巻き込むわけにはいかない。

「では、王命を受けたこの場で、勝手な提案を? それはすなわち、我らに陛下の面目を潰せと言ったに等しい行為ですよ」
「それは……」

 踏みにじられたメモへと目を落とす。ルシアンには伝わらなかったが、そこには、ティナがせいいっぱい描いた未来への提案が書かれている。でも、もう必要ない。すべては頭の中にある。

 ふたたび、ティナはルヴェランの使節団をまっすぐに見つめた。もう二度と、この場へ呼ばれることはないだろう。ふたたび屋敷へ戻され、発言の許されない日々が始まる。いま言わなければ、きっと後悔する。

「和平交渉を一歩でも前へ進めるため、申し上げたいことがあります」
「黙れ。まだ言うか……」

 ルシアンの歯ぎしりが聞こえてきそうなほどの距離で、怒りを向けられた。しかし、ティナはうつむきそうになる顔をあげ、まっすぐ前を向いた。そのとき、ゆっくりと立ち上がったラスが手をあげる。

「このような緊迫の場で声をあげる勇気はいかほどか。聞かずに去るのは惜しい。フロレンティーナ・カリスト嬢のご意見を、ぜひお聞かせ願いたい。議長、よろしいでしょうか?」
< 6 / 61 >

この作品をシェア

pagetop