敵将に拾われた声なき令嬢、異国の屋敷で静かに愛されていく
 静まる室内。ティナに集まる視線を、ルシアンが奪う。

「連れていきなさい」

 ルシアンの声は怒りを超えて冷静だった。それは、彼の怒りが最高潮にのぼり詰めた証拠だったかもしれない。ティナに関わりたくないセレバルの誰もが気配を消そうと必死に息を詰めているのがわかる。そんな中、ゆっくり立ち上がったのは、ハインだった。

 彼は無言でティナの後ろに回り込み、背中を支えるようにして軽く押す。

(このまま終わってしまうの?)

 いやだ。出ていきたくない。助けを求めるように辺りを見回すと、ラスと目が合った。

 眉をひそめたラスが立ちあがろうとする。しかし、ゲレールが手で制し、静かに首を振った。

「行きましょう」

 ハインに促され、会議室の扉へと向かう。

「あの、私は……」

 これからどうなるのだろう。テーブルに両手をつき、じっと床をにらみつけるルシアンの横顔は殺気立っている。

 勝手な言動をしてしまった。さっきまではそれが正義だと確信していたけれど、冷静になって振り返ると、ルヴェランの意を汲むような発言は、王命に逆らっただけでなく、セレバルの立場を弱くしたのではないかと不安になった。

「カリスト公の思いを伝えられたお姿は立派でした。ですが、これ以上は非常に……。いえ、あとは我々にお任せください」

 扉から出された瞬間、ハインに小さな声で耳打ちされた。ティナが驚いて顔をあげたときには、目の前で扉が閉じていた。

 ハインは何を言いかけたのだろう。ルシアンの怒りを買ったのはまずかった。そう言おうとしたのではないかと、不安は増した。

 廊下には、警備の兵士が等間隔に立っていた。しかし、彼らは直立不動のままで、会話などもってのほか。辺りは静まり返り、会議室から漏れ聞こえる声もない。

 ここは、セレバルの領地にある迎賓館。過去にも、平和条約が締結された、格式ある建物だと聞いている。だからこそ、今日のような重要な交渉にも選ばれたのだろう。

 ティナは落ち着かず、うろうろと廊下を行ったり来たりした。緊迫した空気とは一線を画す、雪化粧された落葉樹が美しい庭園が目に入る。ここからそう遠くない場所で、紛争が起きている。そんな気配すら感じない静かな場所に、一人ぽつりと立つ尽くす。

(……どうして、あんなことを言ってしまったのだろう)

 じわじわと、後悔の芽が息吹く。黙って座っているようにと、カタリーナに口うるさく言われていたのに、それすら守れなかった。だから、役立たずの無能だと罵られるのだ。

 ルシアンが彼女に今日のことを告げないはずがない。屋敷へ戻れば、叱咤されるだろう。その姿を想像するだけで、気が滅入る。セレスは言うだろうか。お姉様は不器用で間抜けね、と。

 寒さのせいだけではない震えが足もとから這い上がってくる。ティナは両腕で自身を抱きしめた。この先どうなるのだろうと、心細くなった。

 どれくらい経ったのだろう。空間がきしむように、キィと音を立てて扉が開く。びくりと肩を震わせて、ティナはそちらを振り向いた。

 最初に現れたのは、ルシアンだった。すぐに駆け寄ろうとした。しかし、できなかった。彼は迷いのない足取りで、ティナなど存在していないかのように、こちらを見ることなく通り過ぎていった。

 マントがひらひらと揺れ、そのあとに何人かの従者が続いた。ティナは引き止めようとしたが、声にはならなかった。ルシアンは一度も振り返らないまま、廊下の向こうへと消えていった。

「本日は、私の馬車でお帰りください」

 後ろからかけられた声に驚いて振り返る。そう静かに言ったのは、ハインだった。いつの間にか、すぐそばに立っていた。

 ティナが口を開くより先に、彼はルシアンのあとを追って立ち去った。再び閉じられた扉の音が、廊下に静寂を戻す。この世に、自分だけが取り残された感覚に襲われた。

 ふらふらと歩き、庭園にある柱に寄りかかった。凍るように冷たかったが、気にならなかった。それよりも、疲れた体を預ける場所がほしかった。

「カリスト嬢……?」

 柱を回り込むようにして現れた青年に驚いて、ティナは思わず飛び上がりそうになった。

「え、エイルズ……殿?」

 ラスフォード・エイルズが奇妙な顔つきでこちらを見下ろしている。ティナはあわてて柱から離れた。

「あの……」

 会合中は、ほんの少し味方でいてくれたような、物腰の柔らかさを見せていた彼だが、改めてこうして間近で見ると、とても背が高くて近寄りがたい威圧感がある。その上、こちらをじっと見つめる瞳には、感情を持たないような鋭さも。それらの態度が、敵国の騎士だということを思い出させる。

「……もう帰らないといけません」

 そちらから話しかけてきたのに、ラスが何も言わないから、ティナはいたたまれなくなった。逃げ出そうとすると、スッと動いたラスが行く手を阻む。

「待ちなさい」

 強い言葉ではなかったが、命令口調にびくついた。

「な、何か……?」

 恐ろしくなって、声がうわずる。無意識に、警戒心がむき出しになったのだろう。ラスは一歩身を引くと、顔を背ける。

「いえ……、冷たく当たったつもりは。ただ、お礼を」
「お礼……ですか?」
「交渉はうまく進みました。あなたのおかげです」

 ぼそりと、彼はつぶやくように言った。

「え……、うまく……?」
「交渉が、前に進んだんです。あなたの言葉が、皆の心を動かしたのだと思います」

 ラスは少しだけ息を吐き、ちらりとこちらを見ると、なぜか、気難しげな表情になる。交渉がうまくいって喜んでいるようにはとても見えず、気を許さないように気張っているようにも見える。モンレヴァル一族に対する敬意と、長く紛争を続けたセレバルの公爵令嬢への嫌悪が入り混じっているのかもしれない。

(嫌われていても不思議じゃないけど、お礼を伝えてくれる人なのね……)

 きっと不器用な人なのだろう。自身も器用じゃないだけに、接し方がわからないのはお互い様だ。ラスの緊張をほぐす言葉が見つからなくて、ふたりで沈黙してしまう。

 そのとき、石畳を打ち鳴らす靴音がして、ティナの前に兵士が現れる。彼はラスがいることなど気にもとめず、敬礼する。

「ハイン隊長のご命令により、お迎えにまいりました。馬車までご案内いたします」
「あっ、はい……」

 ティナはすぐに行きかけて、振り返った。ラスは何か言いたげにこちらを見ていた。けれど言葉にはせず、わずかに口を開いて──すぐに閉じた。憂いを帯びたまなざしが気になったが、ティナはほんの少し頭を下げると、そのまま兵士の背中を追いかけた。
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