彩葉という名の春
第10章
呼び名の距離
──数日後──
その日の朝も、静かに始まった
「おはようございます、彩葉さん」
「おはようございます、恭介さん」
ふたりの挨拶はいつも通りだったけれど
どこか、胸の奥ではお互いに小さな違和感が芽生え始めていた
朝食を済ませ、庭先で彩葉は布団を干していた
春の陽気に誘われて、柔らかな風が吹き抜ける
ふと
子どもたちの声が庭の外から聞こえてきた
「彩葉お姉さーん!」
「あっ……みんな、こんにちは!」
「今日は遊ばないのー?」
「ごめんね、今ちょっと手が離せなくて……また今度ね?」
「はーい!」
子どもたちは元気に駆けていく
その様子を恭介が遠くから静かに見つめていた
「すっかり町の人気者ですね、彩葉さんは」
「そ、そんなことないですよ……」
「いえ、本当に。皆、あなたと話すのが楽しみのようです」
彩葉は照れくさそうに笑った
「……それはきっと、恭介さんが優しくしてくださるおかげです」
「ふふ……お互い様です」
柔らかな空気が流れた
──
その日の夕方──
久しぶりに田嶋が訪ねてきた
「恭介さーん!おじゃましまーす」
「お疲れさま、田嶋」
「彩葉さんもこんにちは!」
「あ、こんにちは」
田嶋はいつも通りの軽い調子で手を振る
「いや〜今日もいい雰囲気ですねぇ。そろそろ呼び方も変わってきたんじゃないですか?」
「呼び方……?」
「だって”彩葉さん”って、ちょっとよそよそしいじゃないですか」
「あ、い、いえ……そんな……!」
「……ふむ」
恭介は一瞬、考えるように目を伏せた
田嶋はニヤニヤしながら続ける
「いやいや、そろそろ”彩葉”って呼んだらどうです?こっちの方が自然ですよ」
「……」
「ま、あとはおふたりでゆっくりどうぞ〜」
そう言って田嶋は手をひらひら振りながら帰っていった
──残された空気が
ほんの少しだけ気まずくなる
「……田嶋さん、ほんと余計なことばっかり言いますね」
「……そうですね」
ふたりとも思わず笑ってしまった
けれど、内心では
確かにその言葉が引っかかっていた
──
その夜──
寝る前、静かな座敷でふたり並んでお茶を飲んでいた
雨の音が、静かに障子の外で響いている
ふと、恭介がゆっくり口を開いた
「……田嶋の言葉、少し考えました」
「え……」
「“彩葉さん”と呼ぶのも、少し距離がある気がしてきました」
「……」
「もし……よろしければ──これからは”彩葉”と、呼んでも構いませんか?」
ドクン──と鼓動が跳ねた
一瞬言葉が出てこない
「……私、で、できれば……」
「はい」
「……呼んで、ほしいです……」
「……わかりました」
恭介がふわりと微笑む
「──彩葉」
「……っ」
たったそれだけのことなのに
胸の奥が苦しいくらい熱くなった
「……これで、少し距離が近づいた気がします」
「……はい……」
静かな雨音の中
ふたりの距離はまた一歩、確実に近づいていった
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