彩葉という名の春
第9章
小さな嫉妬
──ある日──
その日は、町内の防空訓練の日だった
朝から人々が忙しなく動く声が庭先まで響いていた
彩葉は縁側に座り、その様子を静かに見つめていた
「皆さん、すごいですね……毎日これだけ準備して」
隣に立った恭介が静かに頷く
「訓練といえど、油断はできませんから。空襲は突然きます」
庭を走り回る子どもたちの声、婦人会の女性たちの掛け声──
戦時中でも、ここには確かに”日常”があった
「彩葉さんも、避難経路は覚えてくださいね」
「あ、はい……できれば……でも……」
彩葉は小さく唇を噛む
「やっぱり、恭介さんがそばにいてくれた方が安心です」
言った後、胸がドクンと跳ねた
恭介も少し驚いたように彩葉を見たが──すぐに、穏やかに微笑んだ
「私も──できれば、ずっとそうしていたいと思っています」
そのまっすぐな言葉に
彩葉はまた俯いたまま、胸の奥が熱くなるのを感じていた
──
昼過ぎ──
玄関に田嶋が現れた
「恭介さーん!彩葉さんもこんにちは!」
「あ、田嶋さん。こんにちは」
「おっ、今日もふたり並んで……いやいや、いいですねぇ」
田嶋の軽い冗談に、彩葉は慌てて手を振った
「そ、そんなことないですよ……!」
田嶋はにこにこしながら、わざとらしく腕を組んで首を傾げた
「いやぁ〜どう見てもいい感じに見えますけどねぇ。ま、町内の人たちも気になってるみたいですよ」
「気にしてる?」
「そりゃあもう。“あの藤宮さんのお家に若い女性が”って、そりゃ噂になりますよ」
「あ、あの……!」
彩葉はますます顔を赤くする
「ふふ……田嶋、からかうのはそのくらいに」
恭介が静かに笑って遮ると、田嶋はあっさり引き下がった
「はーいはーい。あ、そうそう。神社の炊き出しの手伝い、来ます?」
「炊き出し?」
「ええ。町のみんなが集まるんで、彩葉さんも良かったらどうです?」
「……私なんかが行って大丈夫ですか?」
「もちろんです。皆歓迎しますよ」
恭介が静かに頷いた
「良い経験になると思います。私も同行しますから」
「……じゃあ……お邪魔じゃなければ」
「よし、決まり!」
田嶋が満足そうに手を叩くと、自然と場の空気が和んだ
──
翌日──神社の境内
炊き出しの準備で、婦人会の女性たちが忙しなく立ち働いていた
彩葉は恭介の隣で、その光景を眺めながら小さく息を吐いた
「こんなにたくさん……本当に大事な行事なんですね」
「食糧事情は厳しいですが、こういう時は皆の支えになりますから」
彩葉は慣れない動きながらも、婦人会の手伝いに加わった
「お姉さん上手ね〜。若いのに器用だわ」
「いやいや、まだ全然で……」
「あら、恭介さんも奥さん自慢ねぇ」
「ち、違います!」
「まぁまぁ冗談よ」
婦人会の女性たちは、からかうように笑って去っていった
彩葉は顔が真っ赤になるのを感じた
「……皆さん、からかいが好きですね……」
「ええ、悪意はありませんよ。昔からこうです」
「……」
ふと隣に立つ恭介を見上げる
恭介はいつもと変わらぬ穏やかな表情だった
──動じないな、この人は……
胸の奥に、ほんの少しだけむず痒い感情が生まれていく
──
夕暮れ、帰り道──
神社からの帰り道は薄く夕日が差し込んでいた
並んで歩く二人の足音が静かに響く
「……今日、ちょっと驚きました」
「何に、ですか?」
「皆さんに色々言われた時……恭介さん、全然平気そうだったから」
「……慣れていますから」
「普通、少しくらい照れたりしません?」
「……照れても仕方がありませんよ」
「……」
彩葉は思わず足を止めた
「……誰に何を言われても平気なんですか?」
恭介も足を止めて、彩葉をゆっくり見つめた
「平気ではありません。ただ──あなたのことは……放っておけないんです」
「……っ」
ほんの少し低い声だった
「誰に何を言われても、それであなたを守る気持ちが変わるわけじゃありませんから」
心臓が強く跳ねる音が耳に響く
「……」
何も言えずに
視線を少しだけ落とした
でもそのまま歩き出す恭介に
彩葉は慌てて小走りで隣に並んだ
自然と、二人の距離は
またほんのわずか、縮まっていた──
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