彩葉という名の春
第17章
春の静かな幸福
──春、桜の蕾が膨らみはじめた頃──
藤宮家の庭先では
柔らかな日差しが縁側を静かに照らしていた
彩葉は恭介の隣に腰を下ろし
小さな針仕事をしていた
風がふわりと吹き
彼女の髪をそっと揺らす
恭介は何も言わずに
そっと手を伸ばして彩葉の髪を耳にかけた
「……」
「いつも、こうして吹かれていると──春が来たんだと実感します」
「うん……暖かいね」
ふたりは自然と微笑み合った
この頃になると
もう「隣にいること」は当たり前になっていた
心地良い沈黙すらも
ふたりにとっては甘い時間だった
──
その日の午後──
田嶋が、珍しく控えめに訪ねてきた
「こんにちは〜。彩葉さんも、こんにちは」
「あ、田嶋さん。こんにちは」
「今日は……特に用はないんですけどね」
「ふふ、そうなんですね」
田嶋はにこにことふたりの様子を眺める
「相変わらず、良い雰囲気ですねぇ。いや〜……最初の頃が懐かしいですよ」
「……田嶋さん……」
「いやいや、もう何も言いませんよ。お邪魔はしません」
田嶋は茶目っ気たっぷりに手をひらひら振った
「それにしても……こうして静かな日々が続くといいですね。恭介さんにとっても」
「……ええ、そうですね」
恭介の表情がふっと少しだけ陰る
その空気に
彩葉もわずかに胸がざわついた
でも、今は──
まだ静かな日々を壊したくなかった
──
その夜──
ふたりは縁側で並んで
また静かに月を眺めていた
恭介の肩に
自然と彩葉の頭がもたれかかる
「……今日は、いい日だったね」
「ええ。何も起こらない日こそ、幸せなのかもしれません」
その言葉に
彩葉の胸がまた少しだけきゅっと締め付けられる
──ほんとは知ってる
今はただ、奇跡みたいに静かな時間をもらってるだけ
──でも、それでも今だけは
「……恭介」
「ん?」
「ありがとうね……私に、こんな穏やかな日をくれて」
恭介は少し驚いたように目を細めたあと
優しく微笑んだ
「……それは私の方こそです」
そして
彼はそっと彩葉の手を取り、指先を絡めた
「こうして、あなたといる今が──一番幸せです」
「……私も」
そのまま
ふたりは何も言わず、静かに夜風に身を委ねた
ほんの少しの安心と
ほんの少しの不安を胸に抱えながら──
──この静かな春は
やがて終わりを迎えようとしていた──
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