彩葉という名の春
第18章

命令の日

──それは、春の終わりのある日──

 

 

空はどこまでも青く澄んでいて
まるで何事も起きないかのように
穏やかな陽光が町を照らしていた

 

 

でも、その日は朝から
どこか町全体に緊張が漂っていた

 

 

 

「……何か、騒がしいね」

 

 

朝の買い出しから戻った彩葉は
小さく眉を寄せながら恭介に声をかけた

 

 

「……ああ。新たな動員命令が一部に下されたようです」

 

「……動員……」

 

 

胸の奥に冷たい何かが落ちる

 

 

それはずっと遠くにあるようで
でもずっと恐れていた言葉だった

 

 

「恭介は……?」

 

「まだ何も。私は今、内地警備のままです」

 

 

恭介は穏やかに答えた

 

 

でもその表情の奥に
わずかな迷いと重さが見えた

 

 

「……でも、もし……もしも……」

 

「彩葉」

 

 

恭介は、そっと彩葉の肩に手を置いた

 

 

「まだ起きてもいないことで、不安にならないでください」

 

「……」

 

「今は……今を生きることだけを考えましょう」

 

「……うん……」

 

 

彩葉は静かに頷いたものの
胸の奥の不安は静かに疼き続けた

 

 

 

──

 

 

 

それから数日

 

 

町は徐々に慌ただしくなり
防空訓練の回数も増えていった

 

 

婦人会の女性たちは物資を集め、
子どもたちも竹槍訓練に駆り出されるようになった

 

 

彩葉も
そんな日々の中で、必死に平静を保とうとしていた

 

 

でも、ふと気を抜くと──

 

 

「……もし、恭介が遠くへ行ってしまったら……」

 

 

そんな考えが
喉の奥をぎゅっと締めつけてきた

 

 

 

──

 

 

 

そして──その日は突然やってきた

 

 

夕方──
役所から戻った恭介の表情は、いつもより少し硬かった

 

 

玄関で彩葉が出迎えた瞬間──
胸の奥で嫌な予感が跳ねた

 

 

「おかえり……」

 

「ああ、ただいま──」

 

 

ふたりの間に静かな空気が流れた

 

 

「……何か、あったの?」

 

 

彩葉は、もう誤魔化して欲しくない気持ちで尋ねた

 

 

恭介はほんのわずかに目を伏せて、
ゆっくりと口を開いた

 

 

「……出征命令が下りました」

 

 

──ドクン

 

 

鼓動が、大きく跳ねた

 

 

「……いつ……」

 

「……来月頭には、準備に入ります」

 

 

彩葉の視界が、少し滲んだ

 

 

「……そ、そんな……」

 

「……避けられないことです」

 

「……」

 

「国の命令です──私が逆らえるものではありません」

 

「でも……嫌だよ……」

 

 

声が震えた

 

 

ずっと
頭の片隅で覚悟していたつもりだったのに

 

 

いざ現実になると
胸の奥が千切れそうに痛んだ

 

 

「……恭介……嫌だよ……行かないでよ……」

 

「彩葉──」

 

 

恭介が強く彩葉を抱き締めた

 

 

「大丈夫です。必ず帰ってくる」

 

「そんな保証……どこにも……」

 

「……それでも、あなたが待ってくれている限り──私は必ず、帰ると信じます」

 

 

彩葉は彼の胸に顔を埋めて
声を押し殺して泣いた

 

 

涙が止まらなかった

 

 

──静かだった春の日々は
静かに、でも確実に崩れ始めた──
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