キスはボルドーに染めて
 静かな室内に父親の怒鳴り声が響き渡った。

 今の父親には何を言っても通じない。

 愕然とした蒼生は静かに目を閉じると、瞼の裏に映る陽菜美の顔をただじっと思い浮かべていた。


 あれからしばらくして、蒼生がOTOWAホールディングスの社長室を後にしたのは、もう夜も更けた頃だった。

 静まり返ったオフィス街を静かに歩いていた蒼生は、そっと一枚の紙を胸ポケットから取り出す。

 そこにはホテルの連絡先とともに、細い華奢な字で携帯電話の番号が書かれていた。


 蒼生はパンツのポケットから、おもむろにスマートフォンを取り出すと、画面をゆっくりとタップする。


 『嫌です!』


 その瞬間、必死に蒼生の手を引く、陽菜美の顔が思い浮かんだ。

 蒼生は唇をかみしめると、深く息を吐きながら目を閉じる。


「陽菜美、ごめん」

 小さくつぶやいた蒼生の耳元で、スピーカーはしばらく呼び出し音を鳴らした後、静かに相手につながった。


「……蒼生なのね」

 しばし沈黙した後、スピーカーからはどこか安心したような声が漏れ聞こえる。

 蒼生は瞳を上げると、ゆっくりと息を吐いてから口を開いた。
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