その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
洗面所の鏡の前で、麻里子は手を洗うふりをしながら、心の中で必死に自分を立て直していた。
ちゃんと、聞こう。逃げないで。

タオルで手を拭き、そっとリビングに戻ると、貴之が静かにソファに腰を下ろしていた。
その横顔は、怒りの熱を鎮めて静かに燃える灰のように、まだ張り詰めた空気を纏っている。

「……聞きたいことが…あるの」

麻里子は少し声を震わせながらも、まっすぐに言った。
貴之は視線だけを動かし、麻里子を見つめた。

「……さっき、真樹さんと話していたこと……私のこと、ですよね?」

「は?」

一瞬、貴之がまばたきをした。明らかに、予想していなかった反応だった。

「……“麻里子のことを考えると迷う”って、“初めて”だから“手間取ってる”って……それって、私の……そういう……経験のこと、だと……」

麻里子が頬を紅潮させながら言い終えないうちに、貴之の表情が呆然から、ゆっくりと驚き、そして深いため息へと変わった。

「……お前、まさか……」

「……違うんですか……?」

貴之は手で額を押さえ、しばらくの沈黙のあと、ぽつりと呟いた。

「……車の話だよ」

「……え?」

「買い替えようとしてる。SUVに。今の車、気に入ってるだろ。お前を乗せるたびに、褒めてくれるから……それが、頭に残っててな。買い替えて、がっかりされたらって。だから、ちょっと迷ってる」

麻里子の顔が真っ赤になった。

「……で、あの“初めて”って?」

「販売担当が、新人で。俺にSUV売るの、人生初らしい。説明がスムーズにいかなくて、俺も同じ質問を何度も繰り返す羽目になった。真樹には“手間取ってる”って愚痴った。それだけだ」

「……“経験がない”って言ってました……」

「ああ。そいつが経験ないって意味だ。まさか、そんなふうに受け取られるとは思わなかった」

貴之は深く息を吐き、ようやく少し緩んだ口元で麻里子を見た。

「……お前って、時々すごい誤解するよな」

麻里子は、顔を覆って俯いた。

「……だって……」

すると、ソファの横で貴之が小さく笑った。
あの冷たい気配が、ほんの少し、柔らかく溶けていく。

「まったく……こっちは、何を泣かせたかって必死に考えてたのに」

「……ご、ごめんなさい……」

「謝るより、ひとつだけ教えてくれ」

「……?」

「俺の車……やっぱり今のが好きか? それとも……新しいのも、試してみたい?」

その問いに、麻里子は一瞬ぽかんとした後、思わず吹き出した。

「……新しいのがいいかも」

「……わかった」

ようやく、貴之の目元がほんの少し緩んだ。



「……麻里子、風呂、沸いたぞ。転んだとき、打ったところは大丈夫か?」

貴之の声は落ち着いていて、さっきまでの冷たい怒りが嘘のようだった。

「うん、大丈夫。ありがとう。お風呂、先にいただくわ」

麻里子はバッグから新品のナイトドレスを取り出し、浴室へ向かった。

扉を閉めた瞬間、全身から力が抜けた。

(……よかった。怒りは、収まってるみたい……)

でも…怖かった。心の奥ではまだ、その余韻がうずいている。
あの目。冷たくて、感情が読めない瞳。
怒鳴られなかったからこそ、余計に恐ろしかった。
仕事で見たどんな厳しい表情よりも、ずっと。

手首をそっとさすりながら、麻里子は目を伏せた。
…あの時の力も、強くて、逃れられなかった。

さっき掴まれていた手首に視線を落とし、そっとさする。

湯船に身を沈め、静かに足を伸ばす。
熱が身体をゆるめていく。

(……やっぱり、怖かった)

けれど、今はただ、深く息をつきたかった。
麻里子はそっと足を伸ばし、湯船に身を沈めた。
浴室の湯気に包まれて、ようやく心も少しほぐれていく気がした。

麻里子は知らなかった。
静けさの下に潜む、貴之という名の獣の本性を、
それが牙を剥く寸前だったことを。

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