私の世界

第十三話

 翌朝、私が家を出ると、世界が完全に変わっていることに気がついた。

 いや、変わったのではない。私の認識が変わったのだ。これまで見えなかったものが見えるようになり、これまで感じなかったものを感じるようになった。
 アスファルトの道路は、表面的には普通に見える。でも、よく見ると、微細な亀裂の中に紫色の何かが脈打っている。
 それは血液のようでもあり、何かの光のようでもあった。

 商店街のシャッターにも、同じような現象が起きていた。
 金属の表面に、毛細血管のような細い線が走っている。それらは時として明滅し、まるで生き物の皮膚のような質感を持っていた。

 学校へと続く道沿いの木々も、葉の裏側に紫色の斑点が現れていた。
 それらは病気のようにも見えるし、まるで別の生命体に寄生されているようにも見えた。

 でも、行き交う人々は何も気づいていない。
 普通に歩いて、普通に話して、普通に生活している。

 そして、私は気がついた。
 彼らと私の間に、何かが起きていることに。

 私はこの偽物の世界から、もう完全に切り離されてしまったのだ。
 だから、私はこの世界の人たちからは見えないのだ。
 私はそのことを概念として理解した。

 周囲の人たちは忙しそうに、行き先を急いでいる。
 私も取り替えずは学校へ急ぐことにした。

 ただ、私が学校に着いても、状況は同じだった。
 そこで、今の状況を表すかのようなことが起こった。

 昇降口で、いつも挨拶を交わす同級生とすれ違ったときだった。

「おはよう」

 私が声をかけても、その子は私を見ることもなく、まるで誰もいないかのように素通りしていった。
 廊下でも同じだった。何人もの生徒とすれ違ったが、誰も私に気づかない。

 私がそこにいることを、誰も認識していない。

 教室に入ると、私の席に向かった。でも、周りの生徒たちは、私がそこにいることを全く認識していなかった。
 私の隣の席の子が、まるで私の席が空席であるかのように、私の机の上に自分の教科書を広げた。

「ちょっと、私の机なんだけど」

 私が声をかけても、その子は何の反応も示さなかった。
 まるで私の声が聞こえていないかのように、普通に教科書を読んでいる。

 授業が始まると、先生が出席を取り始めた。
 一人一人の名前を呼んで、生徒が「はい」と返事をしていく。

 でも、私の名前が呼ばれることはなかった。
 まるで最初から私という生徒は存在しないかのように、私の番は飛ばされてしまった。 

 私はそのまま、一人で中庭に向かった。もう教室にいる意味がないからだ。誰も私を見ることができないのだから。
 私はベンチに座って、空を見上げた。雲の形は普通だったが、その縁は微妙に紫色に光っていた。

 彼女たちには、私の存在が見えないのだから。

 私はベンチに座って、空を見上げた。
 雲の形は普通だったが、その縁は微妙に紫色に光っていた。

 その時、スマートフォンが通知音を鳴らした。『捏造された私』からのメッセージだった。

「準備はできた?」

 私は何も答えなかった。
 答える必要もない。この状況で、私に選択肢があるとは思えなかった。

 すぐに次のメッセージが届いた。

「もうすぐよ」

 そして、立て続けに次々とメッセージが届いた。

「素敵な場所よ」
「待ってる」
「こちらに来て」
「本物の世界へ」

 私は画面を見つめた。恐怖はもうなかった。
 代わりに、深い諦めのような感情が心を支配していた。

 もう、どうでもいい。

 この状況で抗うことに、何の意味があるだろう。
 現実世界で私の存在は薄れ、誰も私を認識することができない。私は既に現実という名の偽物の世界から切り離されてしまったのだ。

 ならば、向こう側に行くことに何の問題があるだろう。
 そこには、私を待っている人たちがいる。私を必要としている人たちがいる。

 私は家に帰ることにした。
 なぜなら、もやら学校にいる意味がないからだ。誰も私を見ることができないのだから。

 私は一目散に家に戻った。
 家に着くと、母さんが玄関で掃除をしていた。

「お母さん、ただいま」

 私が声をかけても、母さんは全く反応しなかった。まるで私がそこにいないかのように、掃除を続けている。
 私は母さんの目の前に立った。

「お母さん!」

 でも、母さんは私を完全に無視して、私の体をすり抜けるように掃除機を動かした。
 まるで私が空気であるかのように。

 私はもう一度、大きな声で呼びかけてみた。

「お母さん!」

 でも、母さんは全く振り返らなかった。私の存在を、完全に認識していない。
 その光景に、私は深く傷ついた。でも、同時に、なぜかほっとしたような気持ちもあった。

 これで、本当に何の未練もなくなる。

 私は自分の部屋に入った。
 そして、自分の部屋に入ると、壁の模様がさらに複雑になっていた。もはやここは巨大な生物の内臓のようなものになり果てていた。

 そして、その中では、一つの裂け目が現れていた。
 最初は数センチほどの小さな裂け目だった。でも、じっと見ると、それから亀裂がだんだん大きくなっていく。

 30センチ、50センチ、1メートル。
 裂け目の向こうから、深い紫色の闇が現れた。それは単なる色じゃなく、空間そのものだった。

 現実とは違う、あの次元の空間。
 その闇からは、音は聞こえなかった。でも無音ではない。
 いや、正確に言えば、音ではない『何か』が流れ出してきた。

 それは無数の思考が混ざり合った静かなざわめきのような、でも圧倒的な存在感を持つ気配だった。

 そして、その闇の中から、声が聞こえてきた。
 何か引き寄せられるように感じた。

 けれど、私は抗うことを考えなかった。抗う理由がなかった。
 もうここでの私は既に存在しないも同然だったから。ならば、向こう側に行くことの方が自然だった。

 私は静かに立ち上がった。そして、その紫色の闇を見つめた。
 その時、部屋の紫色の闇が、まるで潮が満ちるように、あるいは黒いインクが水に広がるように、静かに部屋を満たし始めた。
 それは劇的な変化ではなかった。
 叫び声も、抵抗も、何もかもを許さない、自然現象のような静かな侵食だった。

 私の足元から、その闇は私の存在をゆっくりと包み込んでいく。痛みはなかった。恐怖もなかった。ただ、静かな安心感があった。
 私の足首が闇に溶けた。膝が闇に溶けた。腰が闇に溶けた。
 私は振り返ることはしなかった。後悔することもなかった。だって偽物の世界には、もう私を見てくれる人はいないのだから。

 胸まで闇に溶けた時、私は微かに声を聞いた。

「おかえりなさい」

 ミツキさんの声だった。

「遅かったじゃない」

 サヤカさんの声だった。

「「「おかえり」」」

 知らない人の声もたくさん聞こえた。男の人、女の人、小さな子、お年寄りの声。
 みんな私を歓迎してくれているようだった。
 そして、私の意識は、これまでの偽物の世界から別の世界へと移った。
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