偽りの月妃は、皇帝陛下の寵愛を知りません。 ー月下の偽妃と秘密の蜜夜。ー

第1話『月鈴妃、下働き生活を満喫中!?』

月の明かりが白磁のように冷たく後宮を照らす夜。
 その奥まった一角に、花一輪も咲いていない宮がある。
 名を【静月宮(せいげつきゅう)】。その宮に住まうのは、皇帝・紫嶺(しれい)陛下の十五番目の妃である月鈴(ユーリン)だった。

「はい、次はこの洗い桶、お願いね、紅玉」
「は、はいっ!」

 月鈴妃と呼ばれる女は、竹製の桶を軽々と抱え、若い侍女――紅玉に声をかける。その姿はとても「妃」とは思えぬ。どこからどう見ても、くたびれた麻布の着物に髪を結い上げた下働きの娘。

「ユー様、あの……、洗い場の床に手なんて……っ! もし他の妃様に見られたら、何を言われるか……!」

 紅玉の声は震えていた。恐怖というより、戸惑いと心配に満ちている。

 だが、当の本人――月鈴は、楽しげに笑った。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。むしろ手を動かすほうが楽しいわよ? お風呂掃除なんて、翠緑にいた頃は毎日だったんだから」

 そう、彼女――月鈴は異国の姫であった。
 翠緑国(すいりょくこく)という南方の緑深き国から、政略結婚の名目でこのメルチエラ帝国へ嫁いできた、十五番目の妃。

 けれど、彼女が迎えられたのは建国百年を記念した象徴的な婚姻――という体裁のみ。皇帝からの寵愛は一度もなく、ただ毎月十五日に顔を見せるだけ。

 他の妃たちはそんな月鈴を「お飾りの妃」「異国の飾り人形」と呼び、距離を置いていた。

 ……しかし、月鈴自身はその扱いに、満足していた。

 ――寵愛を受けず、面倒な争いにも巻き込まれず、自分の宮で、自由気ままに生きられる。

 掃除も洗濯も下働きも、翠緑で過ごした日々を思い出す。地に足のついた、心地のよい時間。

「紅玉、湯の温度、下げておいたほうがいいかも。先に床を流しておくね」
「……月鈴妃様って、本当に変わってる……」

 侍女のつぶやきは、あきれというより、どこか尊敬に似た響きを帯びていた。

 月鈴が床を流す桶の水が、夜気に蒸気を立てる。
 そして、月は、静かにその光を照らしていた。

 ――しかし、彼女はまだ知らなかった。

 「毎月十五日の夜」に訪れる、仮面の皇帝が
 本物の皇帝ではないということを。

 そして、その皇帝(偽)こそが──

 彼女に、甘く危険な愛を向けている唯一の男だということを。



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