偽りの月妃は、皇帝陛下の寵愛を知りません。 ー月下の偽妃と秘密の蜜夜。ー
そして、その夜。

 月の光が、静月宮の薄暗い渡り廊下を照らす。
 砂糖菓子のように白い光が、朱の柱を幻想的に染めていた。

 その空気の中、月鈴は沐浴を終え、濡れ髪を布で軽く拭いていた。
 髪に香は焚かず、顔には紅もなし。寝間着も淡い藍色の木綿布――華やかさの欠片もない装いだ。

 けれど、だからこそ浮かび上がる月鈴の美しさは、清流のように凛としていた。

 そのとき。

 ――とん、とん。

 夜の帳に、控えめな音が響いた。
 控えの間の扉が、侍女の手によって開かれる。

「……陛下がおいでです」

 紅玉が、いつになく緊張した面持ちで告げた。
 普段は陽気で少しおっちょこちょいな彼女も、この日ばかりは神妙な顔をしている。

「……十五日、なのね」

 月鈴は小さく息を吐いた。

 ――毎月十五日、ただ一度。
 皇帝が訪れる“形式上の”夫婦の時間。

 とはいえ、手を握られることもなければ、視線を交わすことすらほとんどない。
 それはまるで、“義務”のような通過儀礼だった。

 月鈴は几帳を抜け、静かに床几の前へ座した。
 そして、ひざを揃えて深く頭を下げる。

「……お迎え申し上げます、陛下」

 ふわりと、衣擦れの音がして。
 その主が、几帳の向こうへと現れた。

「……月鈴妃」

 落ち着いた、低く澄んだ声。
 銀鈴のような音色を持つが、どこか冷たい。距離のある声音だった。

 ゆるく垂れた前髪の下、夜の闇にも溶けるような黒曜石の瞳。
 光を吸い込むような長い睫毛。口元は微かに引き結ばれ、感情は読めない。

 そして何より――彼は仮面をつけていた。

 片目だけを覆う、白金の面。
 模様は簡素だが、仄かに不気味な威圧感を帯びている。

 その顔を見た瞬間、月鈴の心が小さく震えた。

(……やっぱり、どこか……違う)

 毎月十五日、決まって現れるこの“皇帝”。
 初めて会ったときから、月鈴はその違和感をうっすらと感じていた。

 けれど、彼女は決して問いただしたりはしない。
 それは「知らぬふり」をすることが、後宮で生きるために必要なことだと分かっていたから。

「そなたに……問題はないか?」

 彼は形式的な声で問いかける。

 その目に感情はない。
 ただ、どこか探るように、じっと月鈴を見つめていた。

 月鈴は、少しだけ微笑んだ。

「はい。静かに過ごしております。静月宮の名の通り、まこと静かで……心地よい日々です」

 ほんの冗談めかした答えだったが、仮面の男はまったく笑わなかった。

 その代わり、ほんの一瞬だけ――眉が、ぴくりと動いた。

「……そうか」

 それだけ言うと、彼は月鈴の前に歩み寄る。
 距離は、あと数歩。

 けれど、そこから先へは、決して近づかない。

 毎回そうだった。
 ふたりの距離は、決して縮まらない。

(……ねえ、陛下。あなた、本当に……)

 月鈴の心に、言葉にならない問いがよぎる。

 だが、そのとき。

 仮面の皇帝が、ふと、手を伸ばした。

 月鈴の頬に、そっと、指先が触れたのだ。

「……!」

 冷たい指先だった。けれど、ほんの一瞬、熱を帯びているようにも感じた。

 月鈴は驚き、思わず目を見開いた。

 しかし彼は何も言わず、そのまま手を引く。
 まるで、何かを確かめるような、探るような手つきだった。

「……もう、戻る」

 ぽつりと呟き、彼は身を翻す。

 月鈴が声をかけるよりも早く、几帳の向こうへと消えていく。

 そして、扉が、静かに閉じられた。

 その余韻の中に、ただ月光だけが残されていた。
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