偽りの月妃は、皇帝陛下の寵愛を知りません。 ー月下の偽妃と秘密の蜜夜。ー



 月鈴の背をかすめた冷気。
 黒装束の密偵は、指先一本で紫遥を刺そうとした。

 だが彼は、咄嗟に腕を引いて身を翻す。


「貴様……」


 密偵は海鳴のような声で消え、砂原の夜に溶けた。


「大丈夫……でも、危ない。すぐ立ち去ろう」


 心臓が早鐘を打った。
 夜風の音も、砂の跳ね返りも、鼓動にかき消される。

 だが月鈴は、震える手で彼の腕を抱いた。


「怖くても……ここに、いたいです」


 それは甘い囁きだった。

 その夜は急遽、仮の野営となった。
 焚き火の前で、二人は灯を分けるように寄り添った。

 紫遥は、怖がる月鈴を抱きしめながら、ぎこちなくもそっと手を取り――

「俺を信じてくれて、ありがとう」

「はい……」


 髪に絡む砂を丁寧に払う紫遥。
 月鈴はその指先に触れ、静かに息をついた。

 胸の奥で、途端に甘く疼く響き。

 月灯りに浮かぶ顔は、まるで頬を染めた少女のようだった。


< 56 / 100 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop