野いちご源氏物語 二六 常夏(とこなつ)
そのまま新しい姫君のお部屋へ行ってごらんになる。
この姫君は近江(おうみの)(くに)でお育ちになったから、「近江(おうみ)(きみ)」とお呼びいたしましょう。
近江の君はお行儀(ぎょうぎ)の悪い姿勢で双六(すごろく)に夢中になっていらっしゃった。
お相手しているのは近江の君と一緒に引き取った若い女房(にょうぼう)
この女房も品がない。

女房がさいころを振る番になると、近江の君は(ほとけ)様を(おが)むように手を合わせて、
「小さい()、小さい目」
と早口でお祈りになる。
内大臣様は少し離れたところからちらりと(のぞ)いてうんざりしてしまわれた。
(とも)が内大臣様のお越しを伝えようとするのを止めて、お部屋のなかをそのままお覗きになる。

「お返し、お返し」
さいころを入れた(つつ)をひねって、女房はよい目が出るおまじないをしているらしい。
どう見ても内大臣様のお屋敷にふさわしい人たちではない。
でも、姫君のお顔立ちは悪くないの。
愛嬌(あいきょう)がありそうなお顔で、お(ぐし)は美しい。
(ひたい)(せま)すぎるのと、お声や話し方がいかにも庶民的なのが全体の印象を悪くしている。
美人というのではないけれど、内大臣様に似ているところもおありよ。
内大臣様は鏡でご自分のお顔を見るたび、<たしかにあれは私の子だ>とため息をおつきになっているもの。

「この屋敷には慣れましたか。居心地(いごこち)が悪いということはありませんか。何かと忙しくて、なかなか来てあげられていないが」
<ここまで来たのだから>と、内大臣様はお部屋に入っておっしゃる。
姫君はぱあっとお顔を明るくして、あいかわらずの早口でまくし立てなさる。
「こうしてお世話していただきまして、何の不満がございましょう。長年お会いしたかった父君に、ここにおりましてもめったにお会いできないということだけが残念でございますけれど。双六で、よいさいころの目が出ないときと同じようにもどかしゅうございます」

「そうですか。ご退屈(たいくつ)でしょう。本当は私の近くで女房として働いてもらおうかと考えていたのですがね、私の子だと皆が知っているなかで働くのは、ねぇ。ふつうの身分の人の娘なら、大勢(おおぜい)で働いていれば欠点も失敗も目立たないものですけれど、あなたの場合は逆に、うん」
やはり育ちのよい方でいらっしゃるから、姫君のご様子に(めん)()らってしまって、はきはきとおっしゃれない。

姫君には父君の困惑(こんわく)は伝わっていない。
「そんなにたいそうなお役目を頂戴(ちょうだい)しては緊張いたしますから、お便所(べんじょ)掃除にでもお使いくださいませ」
真剣におっしゃるから、内大臣様は思わずお笑いになる。
「それは姫君にはふさわしくありません。めったに会えない親に孝行(こうこう)しようと思ってくださるなら、お声を少し落ち着かせてください。そうすれば私の寿命(じゅみょう)()びるだろう」
こういうときに厳格(げんかく)(しか)りつける方ではいらっしゃらない。
ほほえんでおっしゃるの。

「この早口は持って生まれた(くせ)でございます。幼いころから母に注意されておりました。なんでも私が生まれるとき、お祈りに来てくださったお(ぼう)様が早口だったそうで、それにあやかってしまったのではないかと申しておりました。どうやって治したらよいでしょう」
治す気はおありなのよ。
父君の(おお)せに従いたいとも思っていらっしゃる。
<悪い子ではないのだが>
内大臣様は気の毒にお思いになる。

「そのお坊様はもう少し遠ざけておくべきでしたね」
とおっしゃりながら、どうしたものかとお考えになる。
<この姫を、あのようなご立派な女御(にょうご)様のおそばに上げるのは私が恥ずかしい。かえすがえすも、もっとよく調べてから迎えにいかせればよかった。女御様の女房たちからさらに悪い(うわさ)が広まるだろうし、やはり女御様のところへ行かせるのはやめようか>

でも、今なら女御様は内大臣(ないだいじん)(てい)にいらっしゃる。
いきなり内裏(だいり)に上げるわけではないし、もしかしたらよい教育になるかもしれない。
「女御様のお部屋へときどき上がって、女房たちの作法(さほう)などを見習っていらっしゃい。平凡(へいぼん)な人でも環境次第(しだい)でそれらしくなるものです。お勉強だと思ってお目にかかるとよいでしょう」
「まぁ、うれしゅうございます。こちらのご家族の方々にお認めいただきたいと、長年そればかり願っておりました。女御様のお許しさえいただけましたら、(みず)()みなどしてでもお役に立ちとうございます」
うれしさのあまり、早口はますますひどくなっていらっしゃる。

<悪い子ではない。しかし話が通じない>
内大臣様はお(あきら)めになって、冗談にしてしまわれる。
(まき)(ひろ)いなどもよいかもしれませんね。いや、そんなことはなさらなくてよいから、昔なじみのお坊様だけ遠ざけておおきなさい」
姫君は父君が最上級の貴族でいらっしゃることを今ひとつ分かっておられない。
身分の高い貴族たちのなかでも、重厚(じゅうこう)なお美しさと華やかさは別格で、ふつうの人なら目もくらんでしまうような方よ。

そんな方を前にして、姫君は屈託(くったく)なくお話しになる。
「女御様のお部屋にはいつ上がらせていただけばよいでしょう」
「わざわざ縁起(えんぎ)のよい日を選ぶ必要はありませんよ。大げさにお考えにならなくてもよい。上がりたいとお思いなら、今日にでも」
それだけおっしゃって内大臣様はお帰りになった。
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