『脆い絆』
70 ◇ほつれてるボタン、つけてあげるよ


そう悲し気に打ち明けた雅代は、話の途中で哲司の背広のボタンが
取れかかっていることに気付く。

「哲司くん、それ、上着のボタンが取れかかっているから後で縫い付けて
あげるよ」

「あぁ、助かる。ありがとう」

「じゃあ、早めにお店を出ましょう」

そう雅代から急かされ、ふたりは店を出た。

雅代の家の前まで来た時……
「哲司くん、それ脱いで。縫い付けたら後で家まで持って行ってあげるよ」

「ありがと。悪いね」

哲司はそう言って雅代に上着を渡すとそこで彼女と別れ、少し離れている
実家へと向かった。

その帰り道、哲司の胸の奥には何ともいえない温もりがじわりとこみ上げてくるのだった。

30分もすると雅代が自宅でボタンをしっかりと縫い付けてくれた背広を
持ってきてくれた。

アイロンのかかった背広には、丁寧に縫い直されたボタン。

小さな縫い目が、まるで雅代の心のようにまっすぐで優しい。

「うん、ありがとう。すごく丁寧にやってくれたんだな」

「家でやることもないし、こういうのは得意だから」

ぽつりと呟く雅代の言葉には、どこか寂しさがにじんでいた。


-          ◇ ◇ ◇ ◇



哲司は、それから時折雅代をお茶に誘うようになる。

実家の用事だと称して帰省を重ね、何かと理由をつけては雅代に
会いに行った。

話すたびに知る、雅代の心根の優しさ。
笑うたびに見える、昔と変わらない素朴な笑顔。
そして、言葉の端々に感じる孤独。

「俺さ、最近ちゃんとしたご飯食ってなくてさ。
雅代ちゃん、今度一緒に飯でも食いに行かない?」

「……うん、いいよ。たまにはね」

それは小さな一歩だったが、2人にとっては確かな変化だった。



この日を境に、ふたりの間の距離が縮まった。

哲司の姿が視界に入り、近所に住む雅代がヨレヨレ皴皴の背広姿を見るにつけ


「哲司くん、やだっ、そんな皴皴の背広着ちゃって。
こっちに来るときもう一着持ってくればいいわ。
私が洗濯屋に持って行っといてあげるから。
哲司くんはいい男なんだから皴皴の背広なんて着てほしくないわ。
ボタンのチェックも洗濯屋さんがしてくれるから、外れそうなのが分かったら
私が縫い付けといてあげる」



そう気さくに雅代が申し出てくれてからは、遠慮せず哲司は彼女に
背広の洗濯を頼むようになった。


            ◇ ◇ ◇ ◇


そんなふうにちょいちょい実家に帰っては雅代と交流するようになってから、
身に着けている洋服の見た目も萎びれ心の中もスース―していたのが、いつの
間にかパリっとした見た目になると共に、気持ちも落ち込むことが少なくなり、 
哲司は明るい心持で日々を暮らせるようになっていった。


いつも自分の前では朗らかにしている雅代だが、夫からは離縁され収入もない
今、きっと雅代もそして娘の嫁ぎ先の婚家からの援助のなくなったおばさんたち
も爪に灯を(とも)すように暮らしているに違いない。

今は男でもなかなか仕事のない時代で、女性がとなると更に仕事を見つけるのは
至難の業だ。


女中奉公に出るか誰ぞに囲われるか、はたまた再婚をするか……哲司はなんとか
困窮している雅代の力になってやりたいと思うのだった。

そう思いつつ、哲司は解決策を見つけ出せないまま気がつけば
新たに年を跨いでいた。

そう、深い痛手を負った大正元年は過ぎ去ったのだ。
その年を跨いだ瞬間を自分はこの先一生忘れないだろうと思った。


自分にとって凄まじく波乱万丈とも言えた大正元年が終わりを告げたことは、
感慨深くもあり、また己の罪深さを顧みずにはいられないものだったから。




    ――――― シナリオ風 ―――――


〇東大宮/茶屋の座敷席 続き


   ふと、雅代が哲司の背広を見て気づく。

雅代「哲司くん、それ……ボタンが取れかかってるわ。
 後で縫い付けてあげる」

哲司(はっとして)「あぁ……助かるよ。ありがとう」

雅代(柔らかく笑みを浮かべ)「じゃあ、早めにお店を出ましょう」

   2人、並んで茶屋を後にする。




〇雅代の家の前 / 背広を託す 

雅代「哲司くん、その上着脱いで。縫ったら、家まで届けてあげる」

哲司(少し照れながら)「悪いね……ありがとう」

   哲司、背広を渡し実家へと帰る。
   その胸の奥に、久々に温かなものが灯る。



〇哲司の実家  夜 

   雅代が背広を届けに来る。
   ボタンは丁寧に縫い直され、布地にはアイロンの跡が。

哲司(受け取りながら感嘆して)
「ありがとう……すごく丁寧にやってくれたんだな」

雅代(小さく微笑み、少し寂しげに)
「家でやることもないし……こういうのは得意だから」

   沈黙。互いに何かを感じるが、言葉にはしない。


◇交流のはじまり


   実家に戻るたびに、茶屋や街道を歩く2人。笑い合う場面。

(N)「哲司は折に触れて雅代をお茶に誘うようになった。
 話すたびに知る、その優しさ。
 笑うたびに思い出す、昔の笑顔。
 そして、言葉の端々に滲む……孤独」



◇支え合う関係

〇ある日/路地裏で

   哲司の背広が皺だらけなのを見て、雅代が声を上げる。

雅代(呆れながらも嬉しそうに)
「哲司くん、やだ。そんな皺皺の背広着ちゃって。
もう一着持ってきなさいよ。私が洗濯屋に持っていってあげるから」

哲司(少し照れて)「……ほんとにいいのか?」

雅代
「もちろん。哲司くんはいい男なんだから、皺だらけなんて似合わないわ」

   以降、哲司は遠慮せずに雅代へ洗濯や縫い付けを頼むようになる。


◇再生の兆し

季節が移り変わる/雪から春へ


   哲司の背広はパリっとし、表情も以前より明るい。
   道を歩く姿も凛としている。

(N)「やさぐれていた心も、少しずつ整えられていった。
 雅代の存在は、確かな光となっていた。」

   しかしふと、哲司の目は遠くを見つめ、雅代の暮らしを思う。

哲司(心の声)「……離縁され、収入もない今。
 雅代も、きっと爪に火をともすように暮らしているに違いない。
 この時代、女が仕事を得るのは難しい……女中奉公か、囲われるか、
 再婚か。
 なんとか、俺が彼女の力になりたい……」



◇大晦日から新年へ/除夜の鐘の音、冬の空

〇実家の部屋 深夜
   哲司、ひとり夜空を見上げる。

(N)
「こうして、大正元年は過ぎ去った。
波乱に満ちた、罪深き一年。
この年を跨いだ瞬間を……哲司は生涯忘れることはないだろう」

   鐘の音が響き渡る~

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