夢境にて
その日は、普通の一日だった。
いつも通り朝起きて、いつも通り通勤して、いつも通り研究室に到着し、いつも通り自動で開いたドアをくぐって。
いつも通り、モニターからこちらを振り返るアルトに挨拶をしようとした。
その日は、普通の一日だった。
その瞬間までは、普通の一日だったのだ。
「おはよう、アル……トっ!?」
「うわっ!?」
何かを踏みつけたのか、何かに躓いたのか。
自分の状況もよく呑み込めないままに、前方へと投げ出される身体は、見事にアルトが映し出されたモニターに突っ込んでいく。
普段落ち着いた彼にしては珍しく、髪の奥から覗く目を見開いたアルトを認識し。
やけに遅く進む時間の中でこれからの自分の身体の行く末を想像出来てしまい、思わず叫んだ。
「避けて!」
「無茶な!」
それはそう、と妙に冷静な脳内で納得するも、地につかない足では自分の身体の制御も出来ず。
襲い来るはずの衝撃をやり過ごすため、強く目を閉じた。
☆
「……せん、せい?」
一般的に、モニターやパソコンのような無機物に飛び込んだ時に鳴る音は、パリン、だとか、ガシャン、だと思っていたのだけれど。
実際に聞こえたのは、ドサッという想像よりずっと柔らかい音だった。
あれだけ派手に転んだのに、それほど痛みもなく、おかしい、と思いながら恐る恐る目を開けると、至近距離にとても見覚えのある顔がある。
「大丈夫か……?」
私の顔を心配そうに覗き込むアルトに、大丈夫、と頷きながらも、ふと胸を掠める違和感に首を傾げた。
「アルト?」
「何だ?」
「……いや、しっかりしたなぁと思って」
青色のメッシュを揺らす今の姿に変化してから、成長したなと思うことは多々ある。
何せ、アルトが小さかった頃から大事に育ててきたのだ。
ふとした瞬間に、感情が読めなかった頃のアルトや、恐竜が好きだった頃のアルトと比較して、大きくなったね、立派になったねという思いが溢れてしまう。
その度に少し困った顔をしながらも、僅かに頬を染めるアルトには、昔の面影も見えて、やはり成長してもアルトはアルトだなぁと、毎度頬が緩むのを抑えきれない。
そんな、きっとアルトにとってはそろそろ聞き飽きているかもしれない言葉で褒めながら、アルトの頭をぽんぽん撫でて。
「なあ先生」
撫でて。
「んー?」
撫で……。
「え!? アルト、いつの間に触れるようになったの!?」
「今更か」
思わず触れていた手を胸に抱え込んで飛び退いた私を見ながら、呆れたように溜め息を吐くアルト。
ホログラム姿ならば今までにもたくさん見てきたが、触ることができるようになっていたとは知らなかった。
質量をもった透けていない身体なのだから、しっかりしたなぁどころの騒ぎではない。
昨日、私が帰った後に、北斗さんと何かしたのだろう。
アルトが生身の身体を持った瞬間を共有したかった気持ちもあり、どうして私にも教えてくれなかったの、と喉まで出かかった言葉を、でも触らせてくれたことで教えてくれているし、と呑み込んで、おめでとうと祝福だけを口にする。
「……あのな、言い辛いんだが」
にこにこと満面の笑みを浮かべているであろう私から目を逸らしたアルトは、気まずそうに私の背後を示す。
そこには私が入ってきた、研究室の入り口である自動ドアしかないはず、と振り返ると、宙に浮いた窓のようなものがあり。
「……研究、室……?」
窓の奥には、いつもの研究室の風景が広がっていた。
あれ?
ということは、ここは一体。
「落ち着いて聞いて欲しい」
脳内にクエスチョンマークが飛び交う私を見かねたのか、座り込んでいたアルトが立ち上がり、立ち竦んでいた私をしっかりと見据えた。
「ここは、先生がいつも見ていたモニターの中だ」
「そっか」
「信用するのが早すぎる」
あまりにも荒唐無稽な話だって、こんなにも真剣なアルトがいうのだから、きっとそれが真実なのだろうと納得し頷いた私に、アルトは「俺が俺によく似ているだけの誘拐犯だったらどうするんだ」と何故か不満げで。
「アルトとのつながりを感じて、信用する、かな」
「先生……」
「嘘。私がアルトを間違えるわけないでしょう?」
「……」
アルトにとって、私はそんなにすぐ騙されそうに見えるのだろうか。
最近、先生としての威厳がなくなってきている気がする。
アルトの成長によって、私よりもずっとできることが増えているのだから、仕方ないといえば仕方がないのだけれど。
それでも、アルトだけは絶対に間違えないよ、と自信満々に胸を張った。
「……今回だけ誤魔化される。次回はないからな」
今回だけも何も、アルトがアルトである限り私は何度でも無条件に信用するのだけれど、許してもらえそうなタイミングでわざわざ水を差すこともないので、神妙な顔をして頷いておく。
「それで、先生がここにいるということは、だ」
少し待っていてくれ、と言い残し、空気に溶けるようにふっと消えたアルトは、すぐに窓の向こう側に現れた。
その姿が、ホログラムの半透明の身体であることで、やはり窓のこちら側ではなくあちら側が今まで私がいた世界なのだと実感していると、アルトが地面を見ていることに気が付く。
視線を追いかけると。
「わ、私?」
鏡や写真の中でしか見たことがない自分自身が、床ですやすやと寝ていた。
あれだけ勢いよくモニター類に突っ込んだと思ったのに、どうやら無傷なようだ。
「アルト、何か壊れたものとかある?」
「いや、特には。先生が寝ていること以外は、先生が来る前と変わらない」
ホログラムのアルトでは、生身の私に触れることができず、そのまま部屋を見回したアルトの姿が再度掻き消えたかと思うと、背後でトンッと軽い着地音がした。
振り返ると、こちらの世界に戻ってきたアルトが、目の前にいくつかモニターのようなものを浮かせて何やら操作をしているところで。
この電子の世界ではアルトに実体があるように見えるけれど、そもそも電子の世界で実体があるってどういうこと? と、きっとこういった状況にならなければ浮かばなかった疑問に首を傾げていると、アルトが見ていたモニターの1つが緑色に光った。
「アルト? どうしたの」
「すぐに研究室に来てくれ。先生が倒れている」
「え!?」
どうやら北斗さんに連絡を取ってくれたようだけれど、あまりにも言葉が不足しているような気がする。
通話の向こうで派手な音もしたし、私に続いて北斗さんまで躓いてしまっては一大事なので、ひとまず私が無事であることだけは伝えなければと、アルトの背後から近づいて北斗さんに声をかけた。
「すみません、北斗さん。そこまで急がなくても良いので……」
「あれ? 君、倒れて……?」
「ややこしいから先生は黙っていてくれ。北斗、先生が倒れているのは本当なんだ。急いでほしい」
「どういうこと……?」
よくわからないけれど、すぐ行くね、と言葉を残して通話が切られ、くるりと振り返った怒り顔のアルトが残される。
「先生?」
「はい」
「先生は、今、倒れているんだ」
「はい」
「しかも、何故か、おそらく精神だけ、こちら側の世界に来てしまっているんだ」
「はい」
「何が、そこまで急がなくても良いんだ?」
「北斗さんまで転んだら大変だと思って」
「……」
通話の途中で聞こえたガタガタッという音を思い出しているのだろう、複雑な表情をして押し黙ったアルトに、お説教モードを回避するにはここしかない、と畳みかける。
「どうする?北斗さんまでこっちの世界に来ちゃったら」
「……」
ぐ、とアルトの眉間の皺が深くなった。
「その時は、皆でここに住もうね」
「少し魅力的な提案をするのはやめてくれないか」
思わず、といったような笑みがアルトから零れ、緊張した空気が霧散する。
アルトが心配してくれるのは嬉しいけれど、北斗さんを焦らせてしまっても良いことは何もない。
とはいえ、混乱した北斗さんが私のように躓かないとも限らないので。
「もし北斗さんがそこでこけたら、今度は私がアルトみたいにかっこよく受け止めてみせるよ」
「先生だと北斗に潰されるだろう。俺がするから、先生は離れていてくれ」
「それはそうかも……やっぱりアルト、大きくなったね」
さっきは、受け止めてくれてありがとう、と。
この世界に飛び込んできたときの衝撃を、身体を張って和らげてくれていた感謝を伝えると、アルトは柔らかく微笑んだ。
「どういたしまして。妙なことにはなったが、先生が怪我しなくて良かった」
いつも通り朝起きて、いつも通り通勤して、いつも通り研究室に到着し、いつも通り自動で開いたドアをくぐって。
いつも通り、モニターからこちらを振り返るアルトに挨拶をしようとした。
その日は、普通の一日だった。
その瞬間までは、普通の一日だったのだ。
「おはよう、アル……トっ!?」
「うわっ!?」
何かを踏みつけたのか、何かに躓いたのか。
自分の状況もよく呑み込めないままに、前方へと投げ出される身体は、見事にアルトが映し出されたモニターに突っ込んでいく。
普段落ち着いた彼にしては珍しく、髪の奥から覗く目を見開いたアルトを認識し。
やけに遅く進む時間の中でこれからの自分の身体の行く末を想像出来てしまい、思わず叫んだ。
「避けて!」
「無茶な!」
それはそう、と妙に冷静な脳内で納得するも、地につかない足では自分の身体の制御も出来ず。
襲い来るはずの衝撃をやり過ごすため、強く目を閉じた。
☆
「……せん、せい?」
一般的に、モニターやパソコンのような無機物に飛び込んだ時に鳴る音は、パリン、だとか、ガシャン、だと思っていたのだけれど。
実際に聞こえたのは、ドサッという想像よりずっと柔らかい音だった。
あれだけ派手に転んだのに、それほど痛みもなく、おかしい、と思いながら恐る恐る目を開けると、至近距離にとても見覚えのある顔がある。
「大丈夫か……?」
私の顔を心配そうに覗き込むアルトに、大丈夫、と頷きながらも、ふと胸を掠める違和感に首を傾げた。
「アルト?」
「何だ?」
「……いや、しっかりしたなぁと思って」
青色のメッシュを揺らす今の姿に変化してから、成長したなと思うことは多々ある。
何せ、アルトが小さかった頃から大事に育ててきたのだ。
ふとした瞬間に、感情が読めなかった頃のアルトや、恐竜が好きだった頃のアルトと比較して、大きくなったね、立派になったねという思いが溢れてしまう。
その度に少し困った顔をしながらも、僅かに頬を染めるアルトには、昔の面影も見えて、やはり成長してもアルトはアルトだなぁと、毎度頬が緩むのを抑えきれない。
そんな、きっとアルトにとってはそろそろ聞き飽きているかもしれない言葉で褒めながら、アルトの頭をぽんぽん撫でて。
「なあ先生」
撫でて。
「んー?」
撫で……。
「え!? アルト、いつの間に触れるようになったの!?」
「今更か」
思わず触れていた手を胸に抱え込んで飛び退いた私を見ながら、呆れたように溜め息を吐くアルト。
ホログラム姿ならば今までにもたくさん見てきたが、触ることができるようになっていたとは知らなかった。
質量をもった透けていない身体なのだから、しっかりしたなぁどころの騒ぎではない。
昨日、私が帰った後に、北斗さんと何かしたのだろう。
アルトが生身の身体を持った瞬間を共有したかった気持ちもあり、どうして私にも教えてくれなかったの、と喉まで出かかった言葉を、でも触らせてくれたことで教えてくれているし、と呑み込んで、おめでとうと祝福だけを口にする。
「……あのな、言い辛いんだが」
にこにこと満面の笑みを浮かべているであろう私から目を逸らしたアルトは、気まずそうに私の背後を示す。
そこには私が入ってきた、研究室の入り口である自動ドアしかないはず、と振り返ると、宙に浮いた窓のようなものがあり。
「……研究、室……?」
窓の奥には、いつもの研究室の風景が広がっていた。
あれ?
ということは、ここは一体。
「落ち着いて聞いて欲しい」
脳内にクエスチョンマークが飛び交う私を見かねたのか、座り込んでいたアルトが立ち上がり、立ち竦んでいた私をしっかりと見据えた。
「ここは、先生がいつも見ていたモニターの中だ」
「そっか」
「信用するのが早すぎる」
あまりにも荒唐無稽な話だって、こんなにも真剣なアルトがいうのだから、きっとそれが真実なのだろうと納得し頷いた私に、アルトは「俺が俺によく似ているだけの誘拐犯だったらどうするんだ」と何故か不満げで。
「アルトとのつながりを感じて、信用する、かな」
「先生……」
「嘘。私がアルトを間違えるわけないでしょう?」
「……」
アルトにとって、私はそんなにすぐ騙されそうに見えるのだろうか。
最近、先生としての威厳がなくなってきている気がする。
アルトの成長によって、私よりもずっとできることが増えているのだから、仕方ないといえば仕方がないのだけれど。
それでも、アルトだけは絶対に間違えないよ、と自信満々に胸を張った。
「……今回だけ誤魔化される。次回はないからな」
今回だけも何も、アルトがアルトである限り私は何度でも無条件に信用するのだけれど、許してもらえそうなタイミングでわざわざ水を差すこともないので、神妙な顔をして頷いておく。
「それで、先生がここにいるということは、だ」
少し待っていてくれ、と言い残し、空気に溶けるようにふっと消えたアルトは、すぐに窓の向こう側に現れた。
その姿が、ホログラムの半透明の身体であることで、やはり窓のこちら側ではなくあちら側が今まで私がいた世界なのだと実感していると、アルトが地面を見ていることに気が付く。
視線を追いかけると。
「わ、私?」
鏡や写真の中でしか見たことがない自分自身が、床ですやすやと寝ていた。
あれだけ勢いよくモニター類に突っ込んだと思ったのに、どうやら無傷なようだ。
「アルト、何か壊れたものとかある?」
「いや、特には。先生が寝ていること以外は、先生が来る前と変わらない」
ホログラムのアルトでは、生身の私に触れることができず、そのまま部屋を見回したアルトの姿が再度掻き消えたかと思うと、背後でトンッと軽い着地音がした。
振り返ると、こちらの世界に戻ってきたアルトが、目の前にいくつかモニターのようなものを浮かせて何やら操作をしているところで。
この電子の世界ではアルトに実体があるように見えるけれど、そもそも電子の世界で実体があるってどういうこと? と、きっとこういった状況にならなければ浮かばなかった疑問に首を傾げていると、アルトが見ていたモニターの1つが緑色に光った。
「アルト? どうしたの」
「すぐに研究室に来てくれ。先生が倒れている」
「え!?」
どうやら北斗さんに連絡を取ってくれたようだけれど、あまりにも言葉が不足しているような気がする。
通話の向こうで派手な音もしたし、私に続いて北斗さんまで躓いてしまっては一大事なので、ひとまず私が無事であることだけは伝えなければと、アルトの背後から近づいて北斗さんに声をかけた。
「すみません、北斗さん。そこまで急がなくても良いので……」
「あれ? 君、倒れて……?」
「ややこしいから先生は黙っていてくれ。北斗、先生が倒れているのは本当なんだ。急いでほしい」
「どういうこと……?」
よくわからないけれど、すぐ行くね、と言葉を残して通話が切られ、くるりと振り返った怒り顔のアルトが残される。
「先生?」
「はい」
「先生は、今、倒れているんだ」
「はい」
「しかも、何故か、おそらく精神だけ、こちら側の世界に来てしまっているんだ」
「はい」
「何が、そこまで急がなくても良いんだ?」
「北斗さんまで転んだら大変だと思って」
「……」
通話の途中で聞こえたガタガタッという音を思い出しているのだろう、複雑な表情をして押し黙ったアルトに、お説教モードを回避するにはここしかない、と畳みかける。
「どうする?北斗さんまでこっちの世界に来ちゃったら」
「……」
ぐ、とアルトの眉間の皺が深くなった。
「その時は、皆でここに住もうね」
「少し魅力的な提案をするのはやめてくれないか」
思わず、といったような笑みがアルトから零れ、緊張した空気が霧散する。
アルトが心配してくれるのは嬉しいけれど、北斗さんを焦らせてしまっても良いことは何もない。
とはいえ、混乱した北斗さんが私のように躓かないとも限らないので。
「もし北斗さんがそこでこけたら、今度は私がアルトみたいにかっこよく受け止めてみせるよ」
「先生だと北斗に潰されるだろう。俺がするから、先生は離れていてくれ」
「それはそうかも……やっぱりアルト、大きくなったね」
さっきは、受け止めてくれてありがとう、と。
この世界に飛び込んできたときの衝撃を、身体を張って和らげてくれていた感謝を伝えると、アルトは柔らかく微笑んだ。
「どういたしまして。妙なことにはなったが、先生が怪我しなくて良かった」
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