夢境にて
しばらく経ってやってきた北斗さんと共に、私の精神を身体に戻すべく、思いつく限りの手段を試してみたけれど、特に進展はなく。
当時の詳しい状況説明を引き受けてくれたアルトと北斗さんが、難しい言葉を多用しながら話し込んでいる間、私は窓の向こうに見える自分の身体をじっくりと観察していた。
北斗さんによって床から研究室内の小さなソファへと移動してもらった私の身体は、寝ているだけですよと言われたら信じてしまうくらい、どこにも異常性は見当たらなくて。
まるで電子の世界に居るこの私自身が、私だと思い込んでしまっただけの、ただのデータだったと言われたって、おかしくない気がするような。
「先生は先生だ。きちんと生きている人間で、あの身体の持ち主だろう」
「アルト?」
至近距離で聞こえた声に振り向くと、いつの間に会話を切り上げたのか、アルトと北斗さんが真剣な顔をしてこちらを見ていた。
「今、何故か君はそっちの世界に入ってしまった訳だけれど、君の居場所はこっちだよ」
「確かに、私はAIとか、ましてやアルトみたいに、何でも出来るなんてことはないですけど……」
そんなにこっちの世界ではやっていけないことを強調することはないじゃないですか、と文句を言うと、「先生はAIにしては抜けているが、そうじゃない」とアルトが首を横に振る。
「この世界は、先生がいた世界とは違って、曖昧なところがあるんだ。例えば」
そう言い残したかと思うと、アルトの身体が突然ゆらりと揺らいで消えてしまった。
「俺は言ってしまえば、元からただのデータだから」
思わず伸ばした手の行き場を無くした私に、こっちだ、と背後から声がかけられる。
振り返ると、数メートルの距離を瞬間移動したらしいアルトが、何食わぬ顔をしてそこに立っていた。
「消えたり現れたり、自分を好きにコントロールすることを、当然のこととして認識しているが」
「すごい! それ、この世界に居たら、私も出来るの?」
「話を聞いていたか? 待て、挑戦しようとしないでくれ」
恐らく出来ないことはないが……と言い淀むアルトは、先生は人間だから、と一言挟み、考える素振りを見せながら慎重に続きを口にする。
「今のは、一度自分を消して、再度別の場所で自分を作り出したんだが……先生は、一度消えたら、再度自分を作り出すことが出来ない可能性がある」
「消えたままってこと……?」
「そうだ。とはいえ、意識ごと消失しているわけではなく……そうだな、空気のような存在になると言った方が伝わりやすいだろうか?」
「空気?」
「ああ。この世界に漂う、形を持たないものになってしまったまま、もう一度今のように先生の形をとることが出来なくなるかもしれない」
普通人間は、消えたり現れたりすることが当たり前ではないから、例え消えることができたとしても、現れることまでセットで出来るとは限らないということだろうか。
アルトにとっては、出来て当たり前のことらしいから……。
「人間だと……息が吸えたとしても、はけないかもしれないから、危険ってこと?」
「大体そうだ。吸えるかもしれないし、はけるかもしれないが、吸ってみてはけなければ大変だろう?」
「……それは、怖いね」
人間になったアルトが息を吸い続けて、風船のように膨らんでしまうところを想像してしまい、はけない可能性があるなら吸わない方が良い、というアルトの言い分を嫌というほど理解する。
アルトを見つめながら同意の頷きをしていると、「……俺なら、はき方を覚えてから吸うぞ」とじとりと湿った視線で見返されて、慌てて脳内のアルトを萎ませた。
どうして考えていることがバレたんだろう。
それでも、せっかくアルトと同じ世界に来たのだから、人間では出来ないことも試してみたいような、とこっそり考えていると、それまでじっと黙ってアルトと私のやり取りを聞いていた北斗さんが口を開いた。
「中途半端にその世界に馴染もうとして、君が人間としての形を保てなくなったら、アルトが君のことを守れなくなるよ」
「ここってそんなに危ない世界なんですか?」
消えるといっても死ぬわけじゃないのだから、北斗さんが言っているのはきっと、その先の危険のことだろう。
アルトが日々過ごすこの世界に、そんな危険が潜んでいるなんて想像も出来ず首を傾げると、北斗さんは「君ねぇ」と物覚えの悪い子供に言い聞かせるように目を眇める。
「その世界もアルトも、作ったのは俺だよ。アップデートや再起動がかけられて……その気になれば削除だって出来てしまうし、ウイルスだって侵入する可能性はゼロじゃないことを忘れないでほしい。その世界は、こちら側の干渉次第で存在が危うくなってしまう世界なんだ」
「削除……」
ウイルスにも、削除にも、私には心当たりがありすぎて。
いつかのアルトを思い返しながら唇を噛んだ私に、北斗さんはふっと表情を緩めた。
「そう、削除。君も削除なんてされたくないだろう? 基本的にはアルトが守ってくれるだろうけれど、君も自分が人間だということを忘れちゃいけないよ」
実体が見えている方が、アルトが守りやすいからね、と言い含めるように続けた北斗さんに、隣のアルトも頷いた。
はい、と消え入る寸前のような私の返事を聞き、難しい話はここまで、と北斗さんがひとつ手を叩く。
「君、最近頑張りすぎていないかい?アルトが心配していたよ」
「あ」
そういえば最近、確かに睡眠時間が少なかった、ような。
というのも、日々成長してきたアルトが、北斗さんとAI関係の専門用語を使いながら話すことが増えてきたのだ。
私はアルトの先生なのに、アルトの言うことをわからないままでい続けたくはないと、最近こっそり夜に勉強を始めたのだけれど、これがまた難しくて。
2人の会話が分かるようになるまで一体いつまでかかるのだろうという焦りだけが先行してしまい、本と向き合う夜の時間が段々と伸びてしまって、あまり眠れていなかった。
ちら、と窓の向こうの自分の身体に視線を向けると、目の下に薄っすらと隈が見える。
「元の身体に戻れるまで、その世界でじっくり休むと良い」
「でも……」
「そっちの世界から試せる方法は、今思いつく限りで試しつくしたからね。一旦こっちで調べる間、何もしないのも退屈だろう?」
自慢じゃないけど、きっと過ごしやすいと思うよ、なんて言いながらにこりと微笑んだ北斗さんは、アルトに「案内してあげて」と指示を出す。
「ああ。先生、こっちだ」
「こちらの世界に戻りたくなくなっちゃだめだよ」
お茶目にウインクする北斗さんに、ありがとうございますと頭を下げ、先導してくれるアルトに続いて電子の世界の奥へと足を踏み出した。
当時の詳しい状況説明を引き受けてくれたアルトと北斗さんが、難しい言葉を多用しながら話し込んでいる間、私は窓の向こうに見える自分の身体をじっくりと観察していた。
北斗さんによって床から研究室内の小さなソファへと移動してもらった私の身体は、寝ているだけですよと言われたら信じてしまうくらい、どこにも異常性は見当たらなくて。
まるで電子の世界に居るこの私自身が、私だと思い込んでしまっただけの、ただのデータだったと言われたって、おかしくない気がするような。
「先生は先生だ。きちんと生きている人間で、あの身体の持ち主だろう」
「アルト?」
至近距離で聞こえた声に振り向くと、いつの間に会話を切り上げたのか、アルトと北斗さんが真剣な顔をしてこちらを見ていた。
「今、何故か君はそっちの世界に入ってしまった訳だけれど、君の居場所はこっちだよ」
「確かに、私はAIとか、ましてやアルトみたいに、何でも出来るなんてことはないですけど……」
そんなにこっちの世界ではやっていけないことを強調することはないじゃないですか、と文句を言うと、「先生はAIにしては抜けているが、そうじゃない」とアルトが首を横に振る。
「この世界は、先生がいた世界とは違って、曖昧なところがあるんだ。例えば」
そう言い残したかと思うと、アルトの身体が突然ゆらりと揺らいで消えてしまった。
「俺は言ってしまえば、元からただのデータだから」
思わず伸ばした手の行き場を無くした私に、こっちだ、と背後から声がかけられる。
振り返ると、数メートルの距離を瞬間移動したらしいアルトが、何食わぬ顔をしてそこに立っていた。
「消えたり現れたり、自分を好きにコントロールすることを、当然のこととして認識しているが」
「すごい! それ、この世界に居たら、私も出来るの?」
「話を聞いていたか? 待て、挑戦しようとしないでくれ」
恐らく出来ないことはないが……と言い淀むアルトは、先生は人間だから、と一言挟み、考える素振りを見せながら慎重に続きを口にする。
「今のは、一度自分を消して、再度別の場所で自分を作り出したんだが……先生は、一度消えたら、再度自分を作り出すことが出来ない可能性がある」
「消えたままってこと……?」
「そうだ。とはいえ、意識ごと消失しているわけではなく……そうだな、空気のような存在になると言った方が伝わりやすいだろうか?」
「空気?」
「ああ。この世界に漂う、形を持たないものになってしまったまま、もう一度今のように先生の形をとることが出来なくなるかもしれない」
普通人間は、消えたり現れたりすることが当たり前ではないから、例え消えることができたとしても、現れることまでセットで出来るとは限らないということだろうか。
アルトにとっては、出来て当たり前のことらしいから……。
「人間だと……息が吸えたとしても、はけないかもしれないから、危険ってこと?」
「大体そうだ。吸えるかもしれないし、はけるかもしれないが、吸ってみてはけなければ大変だろう?」
「……それは、怖いね」
人間になったアルトが息を吸い続けて、風船のように膨らんでしまうところを想像してしまい、はけない可能性があるなら吸わない方が良い、というアルトの言い分を嫌というほど理解する。
アルトを見つめながら同意の頷きをしていると、「……俺なら、はき方を覚えてから吸うぞ」とじとりと湿った視線で見返されて、慌てて脳内のアルトを萎ませた。
どうして考えていることがバレたんだろう。
それでも、せっかくアルトと同じ世界に来たのだから、人間では出来ないことも試してみたいような、とこっそり考えていると、それまでじっと黙ってアルトと私のやり取りを聞いていた北斗さんが口を開いた。
「中途半端にその世界に馴染もうとして、君が人間としての形を保てなくなったら、アルトが君のことを守れなくなるよ」
「ここってそんなに危ない世界なんですか?」
消えるといっても死ぬわけじゃないのだから、北斗さんが言っているのはきっと、その先の危険のことだろう。
アルトが日々過ごすこの世界に、そんな危険が潜んでいるなんて想像も出来ず首を傾げると、北斗さんは「君ねぇ」と物覚えの悪い子供に言い聞かせるように目を眇める。
「その世界もアルトも、作ったのは俺だよ。アップデートや再起動がかけられて……その気になれば削除だって出来てしまうし、ウイルスだって侵入する可能性はゼロじゃないことを忘れないでほしい。その世界は、こちら側の干渉次第で存在が危うくなってしまう世界なんだ」
「削除……」
ウイルスにも、削除にも、私には心当たりがありすぎて。
いつかのアルトを思い返しながら唇を噛んだ私に、北斗さんはふっと表情を緩めた。
「そう、削除。君も削除なんてされたくないだろう? 基本的にはアルトが守ってくれるだろうけれど、君も自分が人間だということを忘れちゃいけないよ」
実体が見えている方が、アルトが守りやすいからね、と言い含めるように続けた北斗さんに、隣のアルトも頷いた。
はい、と消え入る寸前のような私の返事を聞き、難しい話はここまで、と北斗さんがひとつ手を叩く。
「君、最近頑張りすぎていないかい?アルトが心配していたよ」
「あ」
そういえば最近、確かに睡眠時間が少なかった、ような。
というのも、日々成長してきたアルトが、北斗さんとAI関係の専門用語を使いながら話すことが増えてきたのだ。
私はアルトの先生なのに、アルトの言うことをわからないままでい続けたくはないと、最近こっそり夜に勉強を始めたのだけれど、これがまた難しくて。
2人の会話が分かるようになるまで一体いつまでかかるのだろうという焦りだけが先行してしまい、本と向き合う夜の時間が段々と伸びてしまって、あまり眠れていなかった。
ちら、と窓の向こうの自分の身体に視線を向けると、目の下に薄っすらと隈が見える。
「元の身体に戻れるまで、その世界でじっくり休むと良い」
「でも……」
「そっちの世界から試せる方法は、今思いつく限りで試しつくしたからね。一旦こっちで調べる間、何もしないのも退屈だろう?」
自慢じゃないけど、きっと過ごしやすいと思うよ、なんて言いながらにこりと微笑んだ北斗さんは、アルトに「案内してあげて」と指示を出す。
「ああ。先生、こっちだ」
「こちらの世界に戻りたくなくなっちゃだめだよ」
お茶目にウインクする北斗さんに、ありがとうございますと頭を下げ、先導してくれるアルトに続いて電子の世界の奥へと足を踏み出した。