ぱたぱたちょうちょ
傍らのアルトがぴたりと足をとめるのと、私がそれに気づいたのはほぼ同時だった。
「せんせい、ちょうちょ」
「ちょうちょだねえ」
無機質な廊下に似つかわしくない、小さく素朴なモンシロチョウがはたはたと飛んでいる。左右にふらふらしながら飛ぶその様子は、さながら見覚えのない場に戸惑う迷子のようだ。いったいどこから入り込んできてしまったのだろう。このあたりは研究所の中でも特に内のほうで、窓はほとんどないに等しいのに。
アルトはじっと目で追っている。タイムリーなことに、つい先ほどまで読んでいた絵本の主人公がチョウだったものだから、余計に興味を引かれているらしい。
ふよ、ふよ、と動く視線にほほえましさを覚えながら、私は数秒待ったのちに「行こう、アルト」と促す。このあとなにも用事がないのならいくらでも好きに見させていたところだけど、あいにく今は秤さんのもとへ向かっている途中だった。
ぼんやりとした視線がこちらを向いて、それから名残惜しそうにチョウへとまた向けられる。
「帰るときにまだちょうちょがいたら、一緒に見ようね」
考えるように一つ、二つ、ゆっくりと瞬き。少しして、うん、とこっくりうなずくと、アルトはまだぽてぽて歩き出した。その半歩先を私も行く。
チョウはというと、はたはたと廊下の奥へと飛んでいき、やがて明かりにまぎれるようにして見えなくなってしまった。
――案の定、秤さんのもとから戻る頃には、モンシロチョウの姿は影も形もなかった。
アルトはじんわりと残念そうな顔をして、それでも素直にあっさりと研究室へと一緒に戻ってくれた。残されたのはなんともいえないもやもやを抱えた私ばかりで、でもアルトの様子からしていっときの興味かなと思っていたら、どうもそんなことはなかったらしい。
ちょうちょの絵本を読む回数が増えた。
お絵描きでチョウを描くようになった。
廊下を行くたび、じっと空中を見つめることが多くなった。
こうなるともやもやは立派な『申し訳なさ』へ変わる。
どうしようかな、とデスクに頬杖をついて考えた。またチョウを見せてあげたい。関連する本を揃えてみよう。動画を用意してもいいかもしれない。いや、外に連れて行こうか。でもおそらく北斗さんから外出許可はおりないだろう。秤さんに手伝ってもらうことにだってあんなに警戒していた彼のことだ、なにかあったときに責任を取れるの、と詰めてくる気がする。右も左もわからないアルトと頼りない新入所員の組み合わせはだいぶ不安だろうから当然だけど。もしくは条件付きでの許可になるか。
……いっそ私が外でチョウを捕まえてきて研究室に放つ? ちょっとかわいそうかな。そもそも難しいかもしれない。
大真面目にそんなことを考えて、ふと横を見ると、ホログラムになったアルトがじっと私を見つめていた。いつの間に。
「せんせい」
「どうしたの、アルト」
「先生も、おえかき?」
指さしたのは私の手元だ。そこには先ほどまで私がボールペンでぐるぐるとあれこれ考え事の最中の手慰みに書いていたメモ用紙がある。
その隅にある一筆で書かれた四つ羽の絵をめざとく見つけたアルトは、「ちょうちょ?」と首をかしげた。それから少しして、「……りぼん?」と反対側へ首をかしげた。確かによく似ている。
ちょうちょだよ、と答えれば、アルトはこくりとうなずいて、じっと落書きを見つめた。その様子を眺めながら、そうだ、とふと思いついた。本物のチョウではないけど、喜んではくれるかもしれない。
*
簡単に言えば、折り紙でチョウを作ろうという話だった。
「アルト、今日は折り紙で遊ぼう」
おりがみ、と首をかしげたアルトが、デスクに広げた色とりどりの紙にわあと目を丸くする。
その手元に北斗さんにデータ化してもらった折り紙を置くと、アルトはさっそく同じように画面上に広げて、一枚一枚見始めた。
「あか、あお、きいろ、おれんじ、……せんせい、これ、なに?」
「きんいろとぎんいろだよ」
「きんいろ、ぎんいろ」
復唱したアルトが、しぱしぱと瞬きをした。
「ぴかぴか」
データ化したときにおそらく光の反射まで反映してしまったらしい。……くわしいことはわからないから推測でしかないけど。
まぶしいならあまり見ないようにね、と言いながら、私は作り方をもう一度端末上で確認する。折り方自体は複雑なものではないから大丈夫なはずだ。きのうも確認したし、折ることもできたし、と折り紙のチョウを取り出しながら顔を上げると、アルトはまだきんいろの折り紙を見ていた。
「ぴかぴか……」
「ぴかぴかだねえ。ぴかぴか、きれいだねえ」
ん、とも、うん、ともとれる声と一緒に、アルトはこっくりうなずいた。
「じゃあきんいろを使おうか? それとも別の色がいい?」
「きんいろ、にする」
というわけで、きんいろのちょうちょが生まれる運びとなった。
「じゃあ折り紙でちょうちょを作るよ〜。これです!」
「ちょうちょ」
まず、すでにできあがったものを見せた。見た目は横長の紙ひこうきといった様子だ。本当はもっとちょうちょらしいものを作ろうかと考えていたけど、そういったものは例外なく折り方がこみ入っているのでやめた。折り紙初心者と折り紙復帰者が挑むには早すぎる。
ひょいと飛ばしてみせると、折り紙のちょうちょはくるくると回転しながらゆっくりと落ちていく。床に落ちるまでをじっくり見守る姿に、よしよし、とひそかに胸を撫で下ろした。興味は持ってくれていそうだ。
そのまま二人で折り紙を始めた。
私は折り方を見ながら、そしてアルトは私が折るのを見ながら、ゆっくり丁寧に進めていく。
アルトは初めてなこともあって、折り方が甘かったりよれてしまっていたりする部分もあったけど、それでも悪戦苦闘の末、無事にちょうちょは完成した。
ぴかぴかのちょうちょだ。
「ちょうちょ」
満足感とうれしさをほんのりにじませながら、アルトは両手に大事に持った折り紙のちょうちょを掲げてみせた。ご満悦だ。ぱちぱちと拍手を送ると、ますます腕を高く上げようと背伸びまでしだした。捧げ物みたいになっている。
「じゃあアルト、次はちょうちょを飛ばしてみようね」
「うん」
お手本を見せる。ひょいと先ほどと同じように投げてみせれば、折り紙のちょうちょはくるくる落ちていく。
じっと見ていたアルトが、モニターの中で同じように「えい」と投げた。少々勢いが強すぎたのか、風にあおられたようになったちょうちょは、しかしすぐに持ち直してその場でくるくるふわふわ落ちていく。アルトの視線がそれを追う。止まる。着地したな、と思った瞬間、アルトがしゃがんでモニターから見えなくなり、すぐにまた現れて、同時にまたちょうちょがアルトの手からひょいと飛ばされた。
くるくる、ふわふわ、ぽとん。
しゃがむ。拾う。立ち上がる。飛ばす。
くるくる、ふわふわ、ぽとん。
しゃがむ。拾う。立ち上がる。飛ばす。……。
計五回、まったく同じ動きをしたアルトは、六回目の『立ち上がる』の段階でようやくこちらの存在を思い出したのか、ちょうちょを片手にこちらを振り向いた。にっこにこのきらっきらな笑顔だ。まぶしい。思わず「うっ」と目をしぱしぱさせた。
「たのしい?」
「うん! せんせ、ありがとう!」
「よかった。どういたしまして」
そんなに気に入ってくれるとは思わなかったのが正直なところだ。ああ本当によかった。退勤後に店に駆けこんだ甲斐があった。
――結局その日、アルトは折り紙のちょうちょで遊び続けたし、ずっと手放さなかった。
あとで北斗さんに聞いたところによると、なんと寝るそのときもちょうちょを放さなかったらしい。
「とんでもないものを与えてくれたね……」と北斗さんは苦笑いした。おかげで俺もちょうちょで遊ぶことになりそうだよ、と言う彼の手には、小さなぎんいろの折り紙のちょうちょがある。
「あはは、そこまで楽しんでくれるとは思わなくて。……ああそうだ、北斗さん、相談があるんですけど」
「うん? なに?」
「今度研究室にモンシロチョウとか放ってもいいですか?」
「え、……モンシロチョウ? どうして? だめだからね?」
「アゲハチョウはどうです」
「種類の問題じゃないよ」

