薔薇の花言葉 [サファイア・ラグーン2作目]
[2] 実行*
サファイア・ラグーンより帰還して一ヶ月、ついに人魚達の旅立ちの時がやって来た。
一度は僕自身を人魚へと変えてから、結界を造ろうという意見もあったが、となればおそらく母さんは力を失うことが予測された。今は一人でも多くの力が必要だ。そのため僕の人魚化は延期され、人間の姿をしたままの僕と母さん、そしてモカが新天地を創造するべき海底の地に立った。
僕達は輪になって手を繋ぎ、目を伏せて念を込めた。夜も更けた海上では、他の船が領域に進入しないよう、父さん達の船やアネモス公の船団が僕達を見守ってくれていた。海中では人魚の皆が遠巻きに静かに、しかし熱心に祈りを捧げていた。

やがてモカのアルーの石と、僕達のルラの石が天へ目掛け、海を貫くように光の矢を放ったその時、僕達は光に包まれて宙に浮かび上がり、それから先は……今でも思い出せない。気が付いた時には自宅の自分のベッドに寝かされていた。母さんも僕も三日三晩目覚めなかったと云う。
父さんにお願いして、僕は新しい結界へ急いだ。僕達が造り上げた筈の結界を目指して潜る。海底にはイメージ通りの岩肌が敷き詰められ、いつものように翳した右手から放たれた光は、その岩に丸い穴を押し広げて、僕を結界内へ導いた。滑り込むように穴を通り抜け頭上を見上げたが、岩の天井は見えず、境界など存在しないかのように外界が透けて見えた。全てが想像していた以上に完璧だった。──僕達は成功したんだ!!
海底に向かって沈み続けながら見下ろした眼下には、人魚の灯も既に配置されたらしく、明るく燈された空間に人魚達の姿と、家らしき構造物がちらほらと見受けられた。海底に辿り着き、目の前を横切った人魚へ問う──モカは、カミルおばさんは──ティアは何処?
彼女は僕に大いなる感謝を表しながら、三人の許へと案内してくれた。途中僕に気付いた人魚達が声をかけてくれる。子供達は歓声を上げながら僕の後に続いた。皆が喜びに満ちた笑顔をしていた。やり遂げたという達成感が僕の中から溢れ出した。
やがて行き着いた先に圧倒的な存在感で立ちはだかっていたのは、あの『東の館』であった。あの二人……こんな巨大な物まで転移させたのか!?
いつものように軋んだ音を立てて開く重い扉。僕が一歩足を踏み入れた其処では、以前のように玉座を取り囲んだ侍女達が、何かを話し合うように集っていた。──が、その中央にカミルおばさんの姿はなかった。ややあって僕の気配に気付いた補佐のマルタが目を留め、その不安そうな表情は一瞬で明るいものに変わった。
「良かった……! ジョエル、無事だったのね!!」
皆の笑顔が僕を迎え入れる。
「今朝までずっと眠っていたんだ……母さんも僕の後に目覚めたよ。あの……三人は?」
マルタは少しホッとしたような面持ちで目を伏せ、奥の室へ招き入れた。此処は……おばさん達の寝室?
「ジル!!」
扉を開いた途端に聞こえた大声と抱擁で、しばらく耳も目も機能しなかった。ああ、でも判る。このシトラスみたいな柑橘系の香り──モカだ。
「モカ、大丈夫だった? ごめん……やっと目が覚めたんだ」
僕の首に絡みついた腕が緩み、至近距離で顔を合わせたその面は、彼女にしては珍しく動揺し涙ぐんでいた。
「あたしなんてさっきよ! 起きて見たら母様とティアが眠っていて……どんなに声をかけても揺さぶっても起きないの! どうしよう……このままなんて……そんなことないわよね?」
「おそらくは僕達と同じだよ。あの夜からもう三日経ったんだ。マルタ、カミルおばさん達が眠り始めたのはいつ?」
僕はモカを抱き留めたまま、背後のマルタに質問した。
「えぇと……結界内の全てを転移させた直後でしたから、ちょうど二日前の今頃よ」
「なら、きっと明日中には目を覚ますよ。モカ、海上で父さんが待っているから報告してこよう。そうしたらそのまま明日まで僕もいるよ。大丈夫、ちゃんと目覚めるって」
「うん……」
涙を拭いたモカは僕を解き放して、空気の膜から水中へ戻り、眠り続ける二人へ振り返った。
──まるで眠り姫みたいだな。
左手に横たわるティアの端へ寄り添う。胸の下で両手を合わせて微動だにしない身体は、白過ぎて蝋人形のようだった。
──良く頑張ったね、ティア。
彼女の寝台に腰掛け、その頬に手を当てた。いつものように温かい……大丈夫だ。きっと目を覚ます。口づけでもしたら、眠り姫のようにすぐ目覚めるだろうか?
「ジル……先に行っているわね」
振り向けば扉に手を掛けたモカが僕を見つめていた。その表情は「どうぞ、ごゆっくり」とでも言いたそうに笑んでいたが、隣にカミルおばさんも休んでいるのだ。そんな気恥ずかしいことは出来ない、と苦笑してモカの後を追った。
──ゆっくりお休み……ティア。
再び侍女達の許へ、更に館の外へ出た先で、モカと僕は喝采を送る人魚達の波に押し寄せられた。これでついに真の意味での安住の地を得たのだ。きっと変わる……いや、変えてみせる。
「二人が目を覚ましたら、ジルもすぐに人魚になるの?」
一通り人魚達の祝福を受け取った後、モカと僕は海上を目指した。そんな問いかけをしながらも、初めて見る新しい結界の様子に、彼女の瞳は落ち着かない。
「いや……此処へ来るまでに考えたんだ。少なくとも学校は卒業しようと思う。父さんも母さんも何も言わないけど、それを望んでいると思うんだ。それに今回結界を造るに当たって、色々な人達の知識と知恵が必要だった。それは今後海の中で暮らすのにもあって損はないと思う。だからせめてティアの成人までは、父さんの船に乗せてもらうことにするよ。見聞を広めるためにも」
隣で泳ぐモカはそれを聞いて、一瞬目を見開き微笑んだ。
「貴方、変わったわね。ううん、変わらないのか。未来の義弟がこんなに頼もしいなんて、あたしも安心して妹を預けられるわ。それに……この世界も」
──義弟ね……年上とは云え、モカの弟になる訳だ。そしてモカはいつかこの人魚界から旅立って、人間として生きるのだろう。愛する人と共に。
「母様が目を覚ましたら、二人で父様の処に伝えに行こうと思うの。その間、ティアのこと頼める?」
「ああ、大丈夫だよ。夏休みは未だ残っているし」
「でも……分かっていると思うけど。『ちゃんと』返してよね」
未来の義姉君はそう言いながらニヤッと嗤い、いやらしい視線を投げた。
「モ、モカ!」
それから船上で待つ父さんに海中の様子を報告し、事情を説明したが、父さんも「そうした方がいい」と僕に賛同して、新結界の成功を手土産に、母さんの待つ家へと戻っていった。
外界の陽も暮れ、夜が世界を闇に包み込む頃。等間隔で置かれた人魚の灯もゆっくりと照度を落とし、やがて深海である此処も本来在るべき漆黒の世界へ変わる。ほとんど音の存在しない静寂な空間。僕は館の窓から辺りを見渡して、三人の寝室へ戻ったが、二人を看ていた筈のモカも、寝台の間で眠りに落ちていた。
──お疲れ様、モカ。
優しく抱き上げて、カミルおばさんの右手の寝台へ横たえる。幾ら三日三晩眠り続けたとは云え、あれほどのエネルギーを使ったのだ。疲れていない訳がない。きっと母さんも幸せな想いを一杯胸に詰めて、この夜も深い眠りに着いたのだろう。そして、僕も──。
それでもティアの寝台の傍らに座り込んで、いつまでも彼女の横顔を眺めていられそうなほど目が冴えていた。彼女の右手を握る。水の中にいるのにこんなに温かい。ちゃんと生きている証拠だ──。
暗闇の中でそれぞれの守護石が、持ち主を守るように微かに光を放っていた。僕が此処を住み処として、人魚の身体を手に入れる時、このルラの石も海へ戻ってくるのだ。ジョル爺とテラばば様の涙が海へ還る日──。
様々な想いが胸の中を巡った。父さんと母さんの愛情、カミルおばさん・モカ・アネモス公のお互いへの気持ち、協力してくれた人間や元人魚、そして現人魚の祈り……瞳を閉じれば瞼の裏側に、一人一人の笑顔が映し出された。最後の一枚は──ティア? いつもの真っ直ぐな瞳が僕を見つめて微笑んでいた。そうだね……この笑顔のために僕は生きている──。
僕は次第に眩しさを感じて、ゆっくりと目を開いた。いつの間にか眠ってしまったのだろうか。視界を包む光は人魚の灯と同じようだ。朝が来たのかもしれない。
左手で瞼を擦りながら頭をもたげ、右手に不思議な違和感を得た。あれ……? えっと……そうだ、ティアの手を握り締めて──。
「ジョ、エル……?」
その小さな呟きに咄嗟に目線を上へ揚げた。半身を起こした銀色の髪の人魚が、僕を見下ろしている──?
「ティア!!」
良かった……! 目が覚めたんだ!! 視界の端に何かが動いたので、視線を右へ逸らしてみた。だるそうに起き上がるカミルおばさんに、声も出せぬほど喜び駆け寄るモカが映り込んだ。
安堵して再びティアを見上げたが、彼女も未だ目を覚まし立てのようだ。訳が分からないといった様子で、瞳はただひたすら僕を見つめている。
「あの……」
「ん?」
「夢……?」
『これ』は夢の中の出来事なのか、と訊いているの?
「違うよ……夢じゃない」
握り締めたままのティアの掌を、僕の頬に触れさせる。その途端瞳がハッと我に返り大きく見開かれた。
「ジョエル!!」
ティアに笑顔が戻った! それはいきなり近付いてきて──彼女は寝台から落ちるように僕に抱きついていた。
「まあまあ……ティアラ。はしたないわよ」
同じくモカに抱きつかれたカミルおばさんが、隣の寝台で笑っていた。ティアを抱きかかえたまま床に尻もちをついた僕は、鼻の先が付きそうな近さで目を合わせて笑い、彼女を抱き上げて立ち上がった。
「母様!」
叫んだティアは、お次に母親の胸へ飛び込んだ。
「アモールとティアラも良く頑張ったわね。ジョエルも……ありがとう」
両脇に二人の娘を抱えたカミルおばさんが、僕に絶品の笑顔を見せていた。
それから少しして、館の大広間で侍女達と喜びを分かち合い、門前で全人魚の歓待を受けた僕等は、新しい結界内を巡るのは後回しにして、まずは以前の結界の様子を見に行くことに決めた。
再び外界へ抜け、結界の境界を目指す。カミルおばさんもモカもティアも、結界の場所を忘れることなどある訳がなかった。自分達の生まれ育った場所なのだから──そして僕自身も、僕の恋も其処で育ったんだ──。
やがてかろうじて判別出来る境界の揺らめきが感じられて、僕達は寸前で立ち止まった。
「開く訳……ないわよね」
モカが右掌を翳してみたが、やはり穴の開く様子はない。全員が言葉もなく、その揺らめきを見つめて立ち尽くしたが、ふと左へ振り向いて僕の視界を占めたティアの横顔は、いつになく凛として、何かを決意したような引き締まった口元をしていた。
ついに僕達は、結界を神へお返ししたのだった──。
一度は僕自身を人魚へと変えてから、結界を造ろうという意見もあったが、となればおそらく母さんは力を失うことが予測された。今は一人でも多くの力が必要だ。そのため僕の人魚化は延期され、人間の姿をしたままの僕と母さん、そしてモカが新天地を創造するべき海底の地に立った。
僕達は輪になって手を繋ぎ、目を伏せて念を込めた。夜も更けた海上では、他の船が領域に進入しないよう、父さん達の船やアネモス公の船団が僕達を見守ってくれていた。海中では人魚の皆が遠巻きに静かに、しかし熱心に祈りを捧げていた。

やがてモカのアルーの石と、僕達のルラの石が天へ目掛け、海を貫くように光の矢を放ったその時、僕達は光に包まれて宙に浮かび上がり、それから先は……今でも思い出せない。気が付いた時には自宅の自分のベッドに寝かされていた。母さんも僕も三日三晩目覚めなかったと云う。
父さんにお願いして、僕は新しい結界へ急いだ。僕達が造り上げた筈の結界を目指して潜る。海底にはイメージ通りの岩肌が敷き詰められ、いつものように翳した右手から放たれた光は、その岩に丸い穴を押し広げて、僕を結界内へ導いた。滑り込むように穴を通り抜け頭上を見上げたが、岩の天井は見えず、境界など存在しないかのように外界が透けて見えた。全てが想像していた以上に完璧だった。──僕達は成功したんだ!!
海底に向かって沈み続けながら見下ろした眼下には、人魚の灯も既に配置されたらしく、明るく燈された空間に人魚達の姿と、家らしき構造物がちらほらと見受けられた。海底に辿り着き、目の前を横切った人魚へ問う──モカは、カミルおばさんは──ティアは何処?
彼女は僕に大いなる感謝を表しながら、三人の許へと案内してくれた。途中僕に気付いた人魚達が声をかけてくれる。子供達は歓声を上げながら僕の後に続いた。皆が喜びに満ちた笑顔をしていた。やり遂げたという達成感が僕の中から溢れ出した。
やがて行き着いた先に圧倒的な存在感で立ちはだかっていたのは、あの『東の館』であった。あの二人……こんな巨大な物まで転移させたのか!?
いつものように軋んだ音を立てて開く重い扉。僕が一歩足を踏み入れた其処では、以前のように玉座を取り囲んだ侍女達が、何かを話し合うように集っていた。──が、その中央にカミルおばさんの姿はなかった。ややあって僕の気配に気付いた補佐のマルタが目を留め、その不安そうな表情は一瞬で明るいものに変わった。
「良かった……! ジョエル、無事だったのね!!」
皆の笑顔が僕を迎え入れる。
「今朝までずっと眠っていたんだ……母さんも僕の後に目覚めたよ。あの……三人は?」
マルタは少しホッとしたような面持ちで目を伏せ、奥の室へ招き入れた。此処は……おばさん達の寝室?
「ジル!!」
扉を開いた途端に聞こえた大声と抱擁で、しばらく耳も目も機能しなかった。ああ、でも判る。このシトラスみたいな柑橘系の香り──モカだ。
「モカ、大丈夫だった? ごめん……やっと目が覚めたんだ」
僕の首に絡みついた腕が緩み、至近距離で顔を合わせたその面は、彼女にしては珍しく動揺し涙ぐんでいた。
「あたしなんてさっきよ! 起きて見たら母様とティアが眠っていて……どんなに声をかけても揺さぶっても起きないの! どうしよう……このままなんて……そんなことないわよね?」
「おそらくは僕達と同じだよ。あの夜からもう三日経ったんだ。マルタ、カミルおばさん達が眠り始めたのはいつ?」
僕はモカを抱き留めたまま、背後のマルタに質問した。
「えぇと……結界内の全てを転移させた直後でしたから、ちょうど二日前の今頃よ」
「なら、きっと明日中には目を覚ますよ。モカ、海上で父さんが待っているから報告してこよう。そうしたらそのまま明日まで僕もいるよ。大丈夫、ちゃんと目覚めるって」
「うん……」
涙を拭いたモカは僕を解き放して、空気の膜から水中へ戻り、眠り続ける二人へ振り返った。
──まるで眠り姫みたいだな。
左手に横たわるティアの端へ寄り添う。胸の下で両手を合わせて微動だにしない身体は、白過ぎて蝋人形のようだった。
──良く頑張ったね、ティア。
彼女の寝台に腰掛け、その頬に手を当てた。いつものように温かい……大丈夫だ。きっと目を覚ます。口づけでもしたら、眠り姫のようにすぐ目覚めるだろうか?
「ジル……先に行っているわね」
振り向けば扉に手を掛けたモカが僕を見つめていた。その表情は「どうぞ、ごゆっくり」とでも言いたそうに笑んでいたが、隣にカミルおばさんも休んでいるのだ。そんな気恥ずかしいことは出来ない、と苦笑してモカの後を追った。
──ゆっくりお休み……ティア。
再び侍女達の許へ、更に館の外へ出た先で、モカと僕は喝采を送る人魚達の波に押し寄せられた。これでついに真の意味での安住の地を得たのだ。きっと変わる……いや、変えてみせる。
「二人が目を覚ましたら、ジルもすぐに人魚になるの?」
一通り人魚達の祝福を受け取った後、モカと僕は海上を目指した。そんな問いかけをしながらも、初めて見る新しい結界の様子に、彼女の瞳は落ち着かない。
「いや……此処へ来るまでに考えたんだ。少なくとも学校は卒業しようと思う。父さんも母さんも何も言わないけど、それを望んでいると思うんだ。それに今回結界を造るに当たって、色々な人達の知識と知恵が必要だった。それは今後海の中で暮らすのにもあって損はないと思う。だからせめてティアの成人までは、父さんの船に乗せてもらうことにするよ。見聞を広めるためにも」
隣で泳ぐモカはそれを聞いて、一瞬目を見開き微笑んだ。
「貴方、変わったわね。ううん、変わらないのか。未来の義弟がこんなに頼もしいなんて、あたしも安心して妹を預けられるわ。それに……この世界も」
──義弟ね……年上とは云え、モカの弟になる訳だ。そしてモカはいつかこの人魚界から旅立って、人間として生きるのだろう。愛する人と共に。
「母様が目を覚ましたら、二人で父様の処に伝えに行こうと思うの。その間、ティアのこと頼める?」
「ああ、大丈夫だよ。夏休みは未だ残っているし」
「でも……分かっていると思うけど。『ちゃんと』返してよね」
未来の義姉君はそう言いながらニヤッと嗤い、いやらしい視線を投げた。
「モ、モカ!」
それから船上で待つ父さんに海中の様子を報告し、事情を説明したが、父さんも「そうした方がいい」と僕に賛同して、新結界の成功を手土産に、母さんの待つ家へと戻っていった。
外界の陽も暮れ、夜が世界を闇に包み込む頃。等間隔で置かれた人魚の灯もゆっくりと照度を落とし、やがて深海である此処も本来在るべき漆黒の世界へ変わる。ほとんど音の存在しない静寂な空間。僕は館の窓から辺りを見渡して、三人の寝室へ戻ったが、二人を看ていた筈のモカも、寝台の間で眠りに落ちていた。
──お疲れ様、モカ。
優しく抱き上げて、カミルおばさんの右手の寝台へ横たえる。幾ら三日三晩眠り続けたとは云え、あれほどのエネルギーを使ったのだ。疲れていない訳がない。きっと母さんも幸せな想いを一杯胸に詰めて、この夜も深い眠りに着いたのだろう。そして、僕も──。
それでもティアの寝台の傍らに座り込んで、いつまでも彼女の横顔を眺めていられそうなほど目が冴えていた。彼女の右手を握る。水の中にいるのにこんなに温かい。ちゃんと生きている証拠だ──。
暗闇の中でそれぞれの守護石が、持ち主を守るように微かに光を放っていた。僕が此処を住み処として、人魚の身体を手に入れる時、このルラの石も海へ戻ってくるのだ。ジョル爺とテラばば様の涙が海へ還る日──。
様々な想いが胸の中を巡った。父さんと母さんの愛情、カミルおばさん・モカ・アネモス公のお互いへの気持ち、協力してくれた人間や元人魚、そして現人魚の祈り……瞳を閉じれば瞼の裏側に、一人一人の笑顔が映し出された。最後の一枚は──ティア? いつもの真っ直ぐな瞳が僕を見つめて微笑んでいた。そうだね……この笑顔のために僕は生きている──。
僕は次第に眩しさを感じて、ゆっくりと目を開いた。いつの間にか眠ってしまったのだろうか。視界を包む光は人魚の灯と同じようだ。朝が来たのかもしれない。
左手で瞼を擦りながら頭をもたげ、右手に不思議な違和感を得た。あれ……? えっと……そうだ、ティアの手を握り締めて──。
「ジョ、エル……?」
その小さな呟きに咄嗟に目線を上へ揚げた。半身を起こした銀色の髪の人魚が、僕を見下ろしている──?
「ティア!!」
良かった……! 目が覚めたんだ!! 視界の端に何かが動いたので、視線を右へ逸らしてみた。だるそうに起き上がるカミルおばさんに、声も出せぬほど喜び駆け寄るモカが映り込んだ。
安堵して再びティアを見上げたが、彼女も未だ目を覚まし立てのようだ。訳が分からないといった様子で、瞳はただひたすら僕を見つめている。
「あの……」
「ん?」
「夢……?」
『これ』は夢の中の出来事なのか、と訊いているの?
「違うよ……夢じゃない」
握り締めたままのティアの掌を、僕の頬に触れさせる。その途端瞳がハッと我に返り大きく見開かれた。
「ジョエル!!」
ティアに笑顔が戻った! それはいきなり近付いてきて──彼女は寝台から落ちるように僕に抱きついていた。
「まあまあ……ティアラ。はしたないわよ」
同じくモカに抱きつかれたカミルおばさんが、隣の寝台で笑っていた。ティアを抱きかかえたまま床に尻もちをついた僕は、鼻の先が付きそうな近さで目を合わせて笑い、彼女を抱き上げて立ち上がった。
「母様!」
叫んだティアは、お次に母親の胸へ飛び込んだ。
「アモールとティアラも良く頑張ったわね。ジョエルも……ありがとう」
両脇に二人の娘を抱えたカミルおばさんが、僕に絶品の笑顔を見せていた。
それから少しして、館の大広間で侍女達と喜びを分かち合い、門前で全人魚の歓待を受けた僕等は、新しい結界内を巡るのは後回しにして、まずは以前の結界の様子を見に行くことに決めた。
再び外界へ抜け、結界の境界を目指す。カミルおばさんもモカもティアも、結界の場所を忘れることなどある訳がなかった。自分達の生まれ育った場所なのだから──そして僕自身も、僕の恋も其処で育ったんだ──。
やがてかろうじて判別出来る境界の揺らめきが感じられて、僕達は寸前で立ち止まった。
「開く訳……ないわよね」
モカが右掌を翳してみたが、やはり穴の開く様子はない。全員が言葉もなく、その揺らめきを見つめて立ち尽くしたが、ふと左へ振り向いて僕の視界を占めたティアの横顔は、いつになく凛として、何かを決意したような引き締まった口元をしていた。
ついに僕達は、結界を神へお返ししたのだった──。