私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】
プロの演奏を聴くような雰囲気に変わる。
彼の指が弦にふれ、弓が動いた瞬間、全員が息をのむ。
最初の音で、私はその音に肌が粟立った―――彼は特別な才能を持った人間なのだと理解した。

「悪魔のトリル……」

私に宣言した曲を難なく弾いた。
哀しみ漂う切ない音のスタート。
明るい曲調になった瞬間から、彼の魅力は増す。
軽やかに踊るような音、上品で―――それでもどこか哀しい。
その音は深い。
私を見て、挑発的な笑みを浮かべたのを私は見逃さなかった。
『すべては自分の思うまま』とでも言うように。
これは、私に向けた曲だった。
正体を見破った私を自分の元へ引き込むための演奏。
悪魔は私を誘う。
逃げられないようにして、私をどうしようというのだろう。
私は彼に微笑みで返す。
受けて立ちましょう、と。
一瞬だったけれど、彼の演奏が乱れた。
ほんの一瞬だけだったから、誰も気づかなかった。
気付いたのは私だけ。
彼が弾き終わると拍手が起き、雨のように称賛が降り注ぐ。
さっきまでの重苦しい空気はなくなり、私のことなど忘れて談笑する。
私の父が、ホッとしているのが見えて、その姿に安堵した。

「どうだった?」

「知久君はすごくバイオリンが上手なのね」

「まーね。俺のことは知久でいいよ」

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