私達には婚約者がいる【菱水シリーズ④】

7 悪魔のバイオリン

「みんな、曲は決まった?」

「知久さん。まだなのよ。弾いて欲しい曲ばかりで」

ずっと年上の女性からも彼は『知久さん』と呼ばれている。
けれど、それに違和感がない。

「決まらないの」
「どうしよう」

きゃあきゃあと周りに女の子達が集まる中で、彼は微笑む。
彼女達が曲を決められないことをわかっていた。
そして、彼が決めることもすでに決まっていたのだ。

「じゃあ、俺が決めてもいいー?」

誰も異論はなかった。
ずっと、彼のバイオリンを聴きたいと思い、待っていた彼女達と周りの人々によって、私の存在は一時的ではあっても、忘れられた。
少なくとも彼が注目を集めてくれている間は誰も私を見ない。
バイオリンケースからバイオリンを取り出し、にこりと微笑んだ。
その笑顔は私に向けられている。

『逃げたければ、今のうちにどうぞ』

そう語っていた。
私に考える猶予と、逃げるチャンスを与えたのだ。
その顔は子供らしくない顔をしていた。
子供でなければ、なんと呼ぶか。

「悪魔みたい……」

私は泣きそうになって、小さくつぶやいた。
ここには私の味方は誰もいないと思っていた。
だけど、違っていた。
ずっと逃げるのは性に合わない。
逃げるくらいなら、逃げないと決めたほうが、ずっといい。
私に向けていた彼の視線を受けとめた。
私が選んだことを知って、バイオリンを顎と肩ではさんで構えた。
彼の右手が弓を手にすると、しんっと静まり返った。
子供の演奏が始まるとは思えない空気。
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