静かな熱

1.午後の会議室と小さな記憶

午後3時すぎ。
窓から差し込む夏の光が、机の上の資料を淡く照らす。

ふたりきりの会議室。
静寂の中、ページをめくる紙の音だけが響く。

「ここ、数字違います…」
私が指差すと、彼はじっと資料を見る。
見つめられる指先が熱く感じられ、思わず視線をそらしそうになる。

「ほんまやな」
彼の声は低くて、少しだけ驚いたようだった。

ページをめくりながら、ぽつりと呟く。
「最近忙しいやろ?」

思わず目が合う。
「…はい」
私は少しだけ笑って返した。

彼は資料に目を戻し、また静かに言った。
「体、大事にせなあかんな」

自然な優しさが含まれていて、胸に染みた。

「…気を付けます」
言葉は少なくても、ふたりの間には確かな温度が流れていた。

彼の横顔をちらりと見ると、眉間に少し皺を寄せているけど、どこか柔らかい表情。

肩がほんの少しだけ触れそうで、でも触れない距離感。
服と空気を伝わって彼の体温が肩から伝わってくる。

午後の会議室で資料をめくる彼の手元を見つめながら、あの日の光景が静かによみがえる。

――入社して間もない、まだ春の空気が冷たかった日。
気疲れと緊張でいっぱいだった私は、誰にも会いたくなくて、そっと非常階段へ逃げ出した。
ドアを開けると、午後の光が差し込む踊り場の奥に、ひとりの男性がいた。

灰色の塀にもたれかかるように肘をつき、街並みを見つめている。
口元には煙草。
指先から白い煙がひとすじ昇っていた。

彼はまだ気づいていない。

淡い光に照らされた横顔が、どこか物憂げで、ただ街を眺めているだけなのに、不思議と目が離せなかった。
太陽の光が彼の瞳に当たって、その透明感が一瞬きらりと光った。
まつ毛の影が長く伸び、まぶたの曲線を際立たせていた。
反射した光が瞳の奥に吸い込まれていくようで、数秒呼吸を忘れた。

そのとき、ふいに彼がこちらに気づいた。
目が合うと、一瞬きょとんとしたあとで、
小さく笑い、こう言った。

「……やべ、見つかってもうた」

しばらく私はあの階段の出来事を誰にも話さなかった。

彼も同じだった。
まるで何もなかったかのように、仕事の中だけ関わってきた。
会議では必要なことを簡潔に伝え、資料のチェックも、進行の管理もそつがない。
言葉は少なくても、状況を正確に捉えていて、その判断に誰もが自然と従っていた。

初めてチームミーティングに参加したとき、彼がホワイトボードに書き出したスケジュールを見て、他のメンバーが小さくうなずくのを見て、
――あ、この人、ちゃんと信頼されてるんだ。
階段で見た「……やべ、見つかってもうた」と笑った人と同一人物だとは思えなかった。

私だけが、そのギャップを知っている。
それが特別な秘密のようで、心に小さな火が灯った気がした。

彼の指先が紙をめくるたび、
その静かな動作に目が奪われてしまう。

そういえば、ちゃんと会話したのは、あの日が最初だった。

──プロジェクト初期、残業が続くある夜。
コピー室で資料を探し、背中を丸めていた私。
どの棚を見ても目的のファイルがなく、焦りだけが募る。

「……これか?」
背後から声がして振り返る。

彼が薄いクリアファイルを片手に立っていた。
眠たげで、それでも優しく笑っていた。

「えっ……あ、はい。たぶん、それです」
うわずった声で返す。

彼はファイルを見て、
「番号ずれてたから、見落としやすいとこやな」
と自然に差し出した。

「ありがとうございます」
手を伸ばしたとき、彼の指が一瞬触れた。

その一瞬が妙にくっきり記憶に残る。

ファイルを受け取ったあと、彼がふとこちらを見た。
「……寒ない?」

唐突すぎて返事が遅れた。
「え、あ……ちょっとだけ」

「風、強かったからな。はよ帰りや」
それきり、彼は何も言わず廊下の奥へ歩いていった。
数分のやりとり。
でもその夜、彼の声とやわらかなまなざしが頭から離れなかった。

そんなことを忘れていたあの日も、仕事に追われていた。

背中が重たく、目の奥がじんわり痛む。
──限界まで頑張るのが、いいことだと思っていた。
自分を誰にも見られていないつもりでいた。
けれど。

ふいに目の前に差し出された手。
視線を上げると、冷たいペットボトルの水と、小さなチョコバーの袋があった。
彼だった。
何も言わず、ただこちらを見て、眉をひそめる。

私は戸惑いながら受け取った。
袋の中のメモに目が行く。
──「気張りすぎんなよ」
たった一行、彼のクセのある字。

「……ありがとう…ございます」
声を出すべきか迷ったけど、彼は何も言わず自席へ戻った。
一瞬なのに、心の真ん中にすっと熱が入る感じ。
……これって誰にでも?それとも私だけ?
確認できないまま、水の冷たさを感じながらメモの文字を何度も見返した。

そんなことを思い出しながら、疲れが見え始めた肩越しに、彼が腕をついて頬杖をついた。

「眠ない…?」
声は小さく、でもどこか甘く含みがあって、彼の目が私をじっと見つめていた。
一瞬、息が止まるようで、私も目をそらせず見返す。
意味ありげな視線に、心臓が早鐘を打つ。

「少し…」
答えながらも胸はぐるぐる高鳴っていた。
彼はくすっと笑い頷き、資料に目を落とす。
そのときだけ、ふたりだけの特別な時間が流れていた。

しばらくして、彼が立ち上がり言った。
「俺、ちょっと飲み物買ってくるわ」
彼が会議室を出て行く。
静かな部屋に資料のページをめくる音だけが戻る。

しばらくして会議室のドアが静かに開いた。
戻った彼は隣に別の社員を連れていて、小声で会話している。
私は気まずくて資料に目を落とす。

彼がさりげなく私の前に飲み物を置き、後ろ手に小さなメモを差し出した。
まわりの目を気にしながらも、彼の指先は迷わず私の手元にメモを滑らせる。
メモには「今日、飲みに行かん?」と短く書かれていた。

彼は同僚と話しながらも一瞬だけ目が合い、微笑む。
私はそれを握りしめ、軽く頷いた。

彼は資料をまとめ、そのまま社員と会議室を出た。
私は遅れて自席に戻る。
忙しくて飲みに行けるかわからないけど、メモの気持ちだけで満足していた。
目の前の仕事に追われる日々の中で、ふとした優しさが心をあたためるのを感じていた。
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