静かな熱
2.知らない道と、やわらかな時間
自分の仕事に集中し、やるべきことを終わらせる。
パソコンをシャットダウンし、書類を片付けると、周囲は少しずつ静かになる。
残っているのは数人だけ。
バッグを肩にかけて立ち上がる。
一日分の疲れが足元にじんわり溜まっている。
時間は午後8時半。
会社のエントランスを出ると、夜風が火照った頬をなでた。
残業帰りの街は静かで、車と足音が時折響く。
頭の中ではメモの言葉が何度も繰り返されていた。
──「今日、飲みに行かん?」
彼の姿を自然と探す。
視線を前に向けると、少し先の歩道沿い。
ビルの街灯に照らされ、見慣れた姿があった。
スーツの上着を小脇に抱え、片足を曲げてフェンスに腰かけている。
ネクタイはゆるく外され、シャツの第一ボタンまで開けられている。
昼間の“上司の顔”とは違い、今の彼は無防備な空気をまとっていた。
スマホから視線を上げ、こちらに気づく。
目が合った瞬間、眠たそうな目元がゆるみ、片手をゆっくりあげて、
「おー、こっち」
言い方もトーンも、昼間よりずっとくだけて、無邪気だった。
無意識に笑い、彼に歩み寄る。
仕事の顔を脱ぎ捨てた彼がフェンスからゆっくり立ち上がる。
「寒ない?上着、持っとき」
そう言って軽く上着を振るが、私が首を横に振ると、
「行こか」
小さく笑い歩き出した。
何も言わず自然に彼の隣を歩く。
昼間のぎこちなさはなく、並ぶ歩調に心が少しずつほどけていく。
数歩進んだとき、彼がポケットに手を入れ、ちらっとこちらを見た。
「もう今日行く店、決めてあんねん」
いたずらっぽく笑う顔に胸が高鳴る。
「……ほんとですか」
思わず笑い返す。
「ほんまほんま。めっちゃええとこ」
彼は少し先を軽快に歩く。
ビルの明かりが少しずつ遠ざかるのを感じる。
人通り少ない路地に入り、車の音も静かになる。
「このへん、ほとんど来たことないかも」
ぽつり呟くと、彼は振り返らず答える。
「せやろ。ちょっとわかりにくいとこやけど、うまいで」
すぐ先に木製の扉と控えめなランプが灯る小さな店が見える。
看板は控えめで、その一角だけがぽっと浮かび上がっていた。
「……ここですか?」
「そ。静かで、ちょっとええ雰囲気やろ?」
彼がドアを押し、先に中へ入る。
背中を追って小さな店内に足を踏み入れる。
木の香りとほのかなスパイスの匂い。
店内は落ち着いた照明で、テーブルは数席。
カウンター奥の店主が軽く会釈する。
「……すごい、落ち着く」
「やろ?」
嬉しそうに笑い、奥のテーブルを指さす。
「こっち、あいてるわ。ほら、座って」
常連のような落ち着きに私は微笑み、促されるまま腰を下ろす。
外の仕事モードとは違う、穏やかで静かな時間がふたりにゆっくり流れ始めた。
テーブルにつくと、彼は背もたれに寄りかかり、片手でメニューを広げる。
「これ、アテ系もうまいけどな。カレーもいける。締めにぴったりやねん」
「…詳しいんですね」
メニューを覗き込みながら笑う。
「せやろ。前にプロジェクト終わったとき、ここ一回来てん」
メニューを軽くこちらに傾ける。
昼間より少しくだけて、無邪気さが目に残る横顔。
「よかったら、おすすめ教えてください」
言うと、彼は「んー」と少し考え、
「じゃあ、これとこれ、それからこれやな」
迷わず指をさす。
「どれも味はしっかりめ。酒には合うと思うで」
「そうなんですね。…楽しみです」
指先を目で追って慌てて目線を戻す。
頬がまだ熱い。
「飲み物、どないする?」
ドリンク欄を見ながら迷って答える。
「…カシスソーダ、お願いします」
彼の口元がふっと緩む。
「可愛いお酒頼むやん」
茶化すように、でも嬉しそうな言葉に、思わず視線を落として小さく笑う。
「…強いのはあまり得意じゃないので」
「そかそか。そしたら、今日は無理せんでええよ」
彼は手慣れたように店員を呼び注文し、自然に水を注ぐ。
その一つ一つの所作が慣れていて、かっこいい。
気づけばその横顔を見ながらぽつり呟いた。
「こういうときでも、頼もしいんですね」
一瞬視線を向け、意外そうに目を細めた。
「今さら?」
テーブルの端を指で軽く叩き、くすっと笑う。
「…昼間よりラフな雰囲気も、素敵だなって思いました」
間を置いて言うと、目元がふわりゆるむ。
「そっちもやで。なんか……今日はよーしゃべるやんか」
「そう…ですか?」
「うん、でも……」
グラスを手に取り、声のトーンを少し落とし、
「悪くないな。…むしろ、ええなって思う」
視線がふっと私をとらえる。
仕事中に見せなかったゆるい笑顔。
やわらかな灯りと、静かな音楽が流れる中、
彼と私はゆっくりグラスを傾ける。
会話は途切れ途切れでも、居心地のよさがあった。
店主の穏やかな笑顔や隣席の笑い声が、夜の静けさに温かみを添える。
時を忘れそうなほど、ふたりに静かな時間が流れた。
時計は遅い時間を指していた。
「そろそろ帰りますか。…まだまだ話してたいけどな」
彼が軽く言い、立ち上がると胸の奥がじんわり温かくなる。
帰り道、少し冷たくなった夜風が、ほどよく火照った頬をやさしく撫でていく。
静かな夜の街。
遠くにタクシーの音が過ぎていき、足音だけが歩道に心地よく響いていた。
夜の静寂に包まれた街並みは、昼間の慌ただしさとはまるで違う顔を見せていた。
並んで歩く距離は、昼間よりも少しだけ近くなった気がした。
パソコンをシャットダウンし、書類を片付けると、周囲は少しずつ静かになる。
残っているのは数人だけ。
バッグを肩にかけて立ち上がる。
一日分の疲れが足元にじんわり溜まっている。
時間は午後8時半。
会社のエントランスを出ると、夜風が火照った頬をなでた。
残業帰りの街は静かで、車と足音が時折響く。
頭の中ではメモの言葉が何度も繰り返されていた。
──「今日、飲みに行かん?」
彼の姿を自然と探す。
視線を前に向けると、少し先の歩道沿い。
ビルの街灯に照らされ、見慣れた姿があった。
スーツの上着を小脇に抱え、片足を曲げてフェンスに腰かけている。
ネクタイはゆるく外され、シャツの第一ボタンまで開けられている。
昼間の“上司の顔”とは違い、今の彼は無防備な空気をまとっていた。
スマホから視線を上げ、こちらに気づく。
目が合った瞬間、眠たそうな目元がゆるみ、片手をゆっくりあげて、
「おー、こっち」
言い方もトーンも、昼間よりずっとくだけて、無邪気だった。
無意識に笑い、彼に歩み寄る。
仕事の顔を脱ぎ捨てた彼がフェンスからゆっくり立ち上がる。
「寒ない?上着、持っとき」
そう言って軽く上着を振るが、私が首を横に振ると、
「行こか」
小さく笑い歩き出した。
何も言わず自然に彼の隣を歩く。
昼間のぎこちなさはなく、並ぶ歩調に心が少しずつほどけていく。
数歩進んだとき、彼がポケットに手を入れ、ちらっとこちらを見た。
「もう今日行く店、決めてあんねん」
いたずらっぽく笑う顔に胸が高鳴る。
「……ほんとですか」
思わず笑い返す。
「ほんまほんま。めっちゃええとこ」
彼は少し先を軽快に歩く。
ビルの明かりが少しずつ遠ざかるのを感じる。
人通り少ない路地に入り、車の音も静かになる。
「このへん、ほとんど来たことないかも」
ぽつり呟くと、彼は振り返らず答える。
「せやろ。ちょっとわかりにくいとこやけど、うまいで」
すぐ先に木製の扉と控えめなランプが灯る小さな店が見える。
看板は控えめで、その一角だけがぽっと浮かび上がっていた。
「……ここですか?」
「そ。静かで、ちょっとええ雰囲気やろ?」
彼がドアを押し、先に中へ入る。
背中を追って小さな店内に足を踏み入れる。
木の香りとほのかなスパイスの匂い。
店内は落ち着いた照明で、テーブルは数席。
カウンター奥の店主が軽く会釈する。
「……すごい、落ち着く」
「やろ?」
嬉しそうに笑い、奥のテーブルを指さす。
「こっち、あいてるわ。ほら、座って」
常連のような落ち着きに私は微笑み、促されるまま腰を下ろす。
外の仕事モードとは違う、穏やかで静かな時間がふたりにゆっくり流れ始めた。
テーブルにつくと、彼は背もたれに寄りかかり、片手でメニューを広げる。
「これ、アテ系もうまいけどな。カレーもいける。締めにぴったりやねん」
「…詳しいんですね」
メニューを覗き込みながら笑う。
「せやろ。前にプロジェクト終わったとき、ここ一回来てん」
メニューを軽くこちらに傾ける。
昼間より少しくだけて、無邪気さが目に残る横顔。
「よかったら、おすすめ教えてください」
言うと、彼は「んー」と少し考え、
「じゃあ、これとこれ、それからこれやな」
迷わず指をさす。
「どれも味はしっかりめ。酒には合うと思うで」
「そうなんですね。…楽しみです」
指先を目で追って慌てて目線を戻す。
頬がまだ熱い。
「飲み物、どないする?」
ドリンク欄を見ながら迷って答える。
「…カシスソーダ、お願いします」
彼の口元がふっと緩む。
「可愛いお酒頼むやん」
茶化すように、でも嬉しそうな言葉に、思わず視線を落として小さく笑う。
「…強いのはあまり得意じゃないので」
「そかそか。そしたら、今日は無理せんでええよ」
彼は手慣れたように店員を呼び注文し、自然に水を注ぐ。
その一つ一つの所作が慣れていて、かっこいい。
気づけばその横顔を見ながらぽつり呟いた。
「こういうときでも、頼もしいんですね」
一瞬視線を向け、意外そうに目を細めた。
「今さら?」
テーブルの端を指で軽く叩き、くすっと笑う。
「…昼間よりラフな雰囲気も、素敵だなって思いました」
間を置いて言うと、目元がふわりゆるむ。
「そっちもやで。なんか……今日はよーしゃべるやんか」
「そう…ですか?」
「うん、でも……」
グラスを手に取り、声のトーンを少し落とし、
「悪くないな。…むしろ、ええなって思う」
視線がふっと私をとらえる。
仕事中に見せなかったゆるい笑顔。
やわらかな灯りと、静かな音楽が流れる中、
彼と私はゆっくりグラスを傾ける。
会話は途切れ途切れでも、居心地のよさがあった。
店主の穏やかな笑顔や隣席の笑い声が、夜の静けさに温かみを添える。
時を忘れそうなほど、ふたりに静かな時間が流れた。
時計は遅い時間を指していた。
「そろそろ帰りますか。…まだまだ話してたいけどな」
彼が軽く言い、立ち上がると胸の奥がじんわり温かくなる。
帰り道、少し冷たくなった夜風が、ほどよく火照った頬をやさしく撫でていく。
静かな夜の街。
遠くにタクシーの音が過ぎていき、足音だけが歩道に心地よく響いていた。
夜の静寂に包まれた街並みは、昼間の慌ただしさとはまるで違う顔を見せていた。
並んで歩く距離は、昼間よりも少しだけ近くなった気がした。