君だけの風景

始まりの音

 わたしの心臓が最初におかしな音を立てたのは、春の午後だった。
 窓の外では、咲き残った桜の花びらが風に吹かれて舞っていた。
 高校三年の四月。進級して数日しか経っていない、まだ新しいクラスの匂いが漂っていた。わたしは、変わらぬ毎日がこのまま続くと信じていた。――その日までは。

 午後の授業が終わり、ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴る。
 わたしは席を立ち、ロッカーから体操服を取り出そうとした。
 その瞬間、急に胸の奥がぎゅっと締めつけられた。息が詰まり、目の前の風景がにじむ。耳の奥で心臓がバクバクと不規則に暴れ出す。声を出そうとしたが、喉から何も出なかった。まるで重力が消えたように、ふわりと視界が浮き、わたしはそのまま教室の床に崩れ落ちた。

 「雪乃!?」

 誰かの叫ぶ声。
 近づいてくる足音と、わたしの名を呼ぶ声。
 遠くなる教室の喧騒のなか、私が最後に見たのは、窓越しに見えた空で悠々と飛ぶ、鳥の姿だった。

 そのまま意識は、すうっと暗闇へと落ちていった。





 病院の天井は、思ったよりも白かった。

 開いた目に映ったのは、無機質な蛍光灯と、機械的な心拍音の電子音だった。
 手には点滴、体にはコード。知らない匂いが鼻の奥を刺激する。
 すぐそばで母が泣いていた。父は無言で天井を見つめていた。
 二人は目を開けたわたしを見て、涙でぐちゃぐちゃになりながら勢いよく抱きしめた。

 そのあと、看護師と共に駆けつけた担当医に、わたしは病名を告げられた。
 拡張型心筋症――心臓の筋肉が徐々に広がり、収縮力を失っていく病気だという。

 「急を要するものではありません。ただし、生活には注意が必要です」
 医師はそう言った。

 ――命にすぐ関わるものではない。
 その言葉に、わたしも、両親も、少しだけ安心したように頷いた。
 でも、今振り返れば、その「大丈夫」は、あまりにも曖昧だった。





 病気の名前を知ってから、周囲の空気は静かに変わった。
 家族も、友人も、教師も、誰もがわたしを“壊れもの”のように扱い始めた。

 それは、悪意のない、しかし確実な「隔たり」だった。






 その日を境に、わたしの世界は少しずつ、確実に変わっていった。

 母は夜遅くまで食事の栄養バランスを調べ、薬を飲み忘れていないかどうか、わたしの体調の変化はどうか、メモをつけるようになった。
 父は無口なままだけど、朝、玄関で「気をつけて」と声をかけてくれるようになった。
 弟の蒼太も、ゲームばかりしていたのに、わたしに「具合どう?」とたまに訊いてくるようになった。

 家族の優しさは、確かに嬉しかった。
 けれどその優しさの裏には、“病気のわたし”という前提がある。
 最初は気にも留めなかったそれが、だんだんと胸に重くのしかかるようになった。





 学校でも、変化は明確だった。

 「重いもの、持たなくていいよ」
 「掃除、代わるよ」
 「無理しないでね」
 ――友達のその言葉は優しさだけれど、同時に、線引きでもある。
 配慮という言葉が、わたしの足元に見えない柵を作った。

 “普通の高校生活”から、わたしは静かに遠ざかっていた。
 周りの人の気づかいは“柵“から、だんだんと“壁“になっていった。





 ある日、わたしは母と衝突した。

 「雪乃、体調はどう?新しい薬はちゃんと飲んだ?変わったところとかない?」

 口を開けばわたしを心配する母の言葉は、まるでわたしが普通じゃないと言われているようで、辛かった。

 「もう、わたしのことなんか放っといてよ!」

 怒鳴ったあとで、息が荒くなって、胸が少し痛んだ。
 母の顔が一瞬で青ざめ、わたしの腕を掴む。

 「ごめん雪乃。ママが全部悪かったから、落ち着こう」

 優しく、どこか焦ったようにわたしの背中を摩る手が、どうしようとなく鬱陶しくなって。
 わたしの名前を呼び引き止めようとする母の声に背を向けて、わたしはリビングのドアを閉めた。

 その夜、母はリビングのソファで寝ていた。
 テーブルの上にはわたしの薬が、丁寧に日付のついたピルケースに並べられていた。

 どうしようもなく、逃げ出したくなった。
 「病気のわたし」ではない、「ただのわたし」でいられる場所を探したくなった。





 月曜日。
 目が覚めたとき、外は晴れていた。
 いつも通り制服を着て、朝ごはんを食べて、家を出る。
 でも、向かったのは学校へと続くバス停ではなく、少し足を伸ばした先にある駅だった。

 小さなリュックには、財布とスマホと、小さなスケッチブック、そして音楽プレイヤー。
 それだけでよかった。何も予定はなかった。ただ、遠くへ行きたかった。

 電車に乗って、知らない街へ。
 誰もわたしを知らず、わたしも誰を知らない場所へ。

 窓の外を流れていく景色を見ながら、わたしは静かに思った。

 「これは、旅だ」
 「わたしだけの旅の、はじまりなんだ」

 小さく、でも確かに。わたしは胸が高鳴るのを感じた。
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