君だけの風景

知らない景色の中で

 電車を降りたとき、わたしは一瞬、自分のいる場所がわからなかった。
 小さな駅。改札はひとつだけ。交通系電子マネーは使えず、切符を係員に手渡しするタイプだった。

 空は広く、町は静かだった。
 都心の喧騒から二時間ほど離れただけなのに、まるで別世界に来たようだった。

 見知らぬ街の風の匂いは、少しだけ土と草の香りが混ざっている。
 コンビニの看板すら、どこかのんびりして見えた。

 ――これが、自由。
 そう思った。
 「学校に行くふりをして、制服のまま知らない町へ来る」という背徳感も含めて。

 わたしは駅前のベンチに腰を下ろし、ペットボトルのお茶を口に運んだ。
 何をするでもなく、どこへ行くでもなく、ただここにいることが、すでに特別だった。





 「旅、してるの?」

 その声は、左手側から唐突に聞こえた。
 驚いて顔を上げると、わたしと同じくらいの年齢に見える少年が立っていた。

 髪は少し伸びていて、風になびいている。
 制服ではなく、シンプルなシャツとジーンズ姿。
 手には一冊の文庫本と、小さなバックパック。

 「いや、突然すぎてごめん。でも、制服でこんな場所にいるって、ちょっと目立つからさ」

 彼は、決して嫌味でも皮肉でもなく、自然に笑った。

 「……逃げてきたの」

 気づけば、わたしはそう答えていた。
 嘘も言い訳もなしに、ありのままの言葉が出ていた。

 「…いいじゃん。逃げるのって、悪くないよ」

 彼の名前は、遥人(はると)だった。
 この町で生まれ育ち、最近はあちこちを旅しているらしかった。
 高校には籍があるけれど、病気で長く通っていないという。
 「元気だけど、身体が“たまに変なことする”んだ」と笑っていた。





 わたしたちは、その日ほとんど言葉を交わさなかった。
 でも、町を一緒に歩いた。

 小さな神社。商店街。川沿いの遊歩道。駅裏の桜並木。

 彼は何も特別な案内をしない。ただ、わたしが興味を示した方向へ一緒に歩いてくれた。
 おばあさんが一人で切り盛りする小さな商店でお饅頭を買い、公園のベンチで半分こした。
 そのときのお饅頭の味は、驚くほど記憶に残っている。
 特別なものではないけれど、甘くて、体に染みるようなそんな味。





 夕暮れになって、わたしは帰らなければならなかった。
 電車の本数は少なく、帰りが遅くなればなるほど、家族に気づかれる。

 「また、来るかも」

 そう言うと、遥人はにっこり笑った。

 「じゃあ、僕はここにいるかもしれないし、いないかもしれない」

 まるで風のような答えだった。
 でも、その曖昧さが妙に心地よかった。

 「名前、教えてくれてありがとう。じゃあね、雪乃」

 彼がわたしの名前を呼んだのは、それが初めてだった。
 そしてそれは、驚くほど優しい響きを持っていた。





 電車に揺られて帰る途中、わたしは何度もさっきの会話を思い出した。
 彼の笑い声。歩幅。声のトーン。お饅頭を半分にちぎる仕草。すべてが静かに心に残っていた。

 わたしのなかで、“逃げた”という罪悪感は、もう消えかけていた。
 かわりに、“生きてる”という感覚が、ふつふつと湧き始めていた。

 あの町は何も特別じゃなかった。
 でも、あの一日が、わたしの心を少しだけ軽くしたのだった。
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