君だけの風景
春の底で、君をまた
春は、すでに来ていた。
ここは遥人と出会った町からは遠く、
わたしの過去を知る人間が、誰もいない場所。
それでも、街の風景にはどこかで“既視感”が滲んでいた。
これは記憶ではない。
わたしの心が、あらゆるものに遥人を重ねてしまうせいだった。
坂道にあるベンチ。
大学の近くの、静かな図書棟。
その近所の喫茶店で出てきた、彼が好きだった味のココア。
すべてに、「かつての何か」がちらついた。
“わたしは、忘れていない”。
それだけが、わたしを前に進ませていた。
ある土曜日の昼、ひとりで街を歩いていた。
商店街の先にある、古びたレンガ造りの建物が目に留まった。
建物の脇には、手書きの看板があった。
《ことばの庭》
そう書かれたその場所は、小さな古本と雑貨の店だった。
入ってすぐに、紙の匂いが鼻をくすぐった。
静かな音楽がかすかに流れ、陽射しが埃を金色に浮かび上がらせていた。
書棚を眺めながら歩いていたとき、ふと、壁の掲示板が目に入った。
そこには、手書きの詩や感想が所狭しと貼られていた。
一枚の紙が、わたしの視線を捉えた。
白い便箋に、滲んだ青いインク。
まるで、かつてわたしが見たあの詩集のページのような書きぶり。
文面の最後に、こう書かれていた。
『“風が吹いたとき、君がそこにいたような気がした”
それだけで、一日を生きることができた。』
心臓が、音を立てて跳ねた。
それは、間違いなく――遥人の言葉だった。
その瞬間、わたしの中で、時が巻き戻った。
旅の記憶。ベンチの記憶。手紙の記憶。
すべてが、一本の糸で繋がっている気がした。
「これ、誰が書いたものですか?」
わたしは、思わず声を上げていた。
カウンターの奥にいた女性店主が、少し驚いたようにこちらを見て、首をかしげた。
「ああ、それね。よく来てくれてた男の子が、置いていったものよ」
「その人、今も来ますか?」
「最近は見かけないけど……名前も訊いたことがなくて。
でも、確かに、“大切な誰かのことを、ずっと思い続けてる子”だったわ」
わたしは、言葉を失った。
遥人が、この街のどこかにいる。
それは、確信だった。
でも、もう一度会うことが、幸せなのかどうかは、わからなかった。
会わずに済ませたほうが、過去は美しく保存されるかもしれない。
それでも――わたしの足は、止まらなかった。
わたしは、その日から、毎日その店に通い始めた。
あの掲示板に、遥人からの手紙がもう一枚、増えるかもしれないという希望を胸に。
何も起きなくてもいい。
ただ、わたしは、あの言葉に返事を書きたかった。
わたしは、便箋を一枚、棚から取り出し、ペンを走らせた。
『わたしも、風が吹いたとき、
君がそこにいたような気がした。
その一瞬を、まだ信じている。』
それが、誰かの目に留まることを祈って、
掲示板の隅に、そっと留めた。
“もしも君がここを通ったなら、
どうか、この言葉の隣に、君の言葉を置いてください。”
そう願いながら、
わたしは、春の底を、ひとりで歩き続けていた。
ここは遥人と出会った町からは遠く、
わたしの過去を知る人間が、誰もいない場所。
それでも、街の風景にはどこかで“既視感”が滲んでいた。
これは記憶ではない。
わたしの心が、あらゆるものに遥人を重ねてしまうせいだった。
坂道にあるベンチ。
大学の近くの、静かな図書棟。
その近所の喫茶店で出てきた、彼が好きだった味のココア。
すべてに、「かつての何か」がちらついた。
“わたしは、忘れていない”。
それだけが、わたしを前に進ませていた。
ある土曜日の昼、ひとりで街を歩いていた。
商店街の先にある、古びたレンガ造りの建物が目に留まった。
建物の脇には、手書きの看板があった。
《ことばの庭》
そう書かれたその場所は、小さな古本と雑貨の店だった。
入ってすぐに、紙の匂いが鼻をくすぐった。
静かな音楽がかすかに流れ、陽射しが埃を金色に浮かび上がらせていた。
書棚を眺めながら歩いていたとき、ふと、壁の掲示板が目に入った。
そこには、手書きの詩や感想が所狭しと貼られていた。
一枚の紙が、わたしの視線を捉えた。
白い便箋に、滲んだ青いインク。
まるで、かつてわたしが見たあの詩集のページのような書きぶり。
文面の最後に、こう書かれていた。
『“風が吹いたとき、君がそこにいたような気がした”
それだけで、一日を生きることができた。』
心臓が、音を立てて跳ねた。
それは、間違いなく――遥人の言葉だった。
その瞬間、わたしの中で、時が巻き戻った。
旅の記憶。ベンチの記憶。手紙の記憶。
すべてが、一本の糸で繋がっている気がした。
「これ、誰が書いたものですか?」
わたしは、思わず声を上げていた。
カウンターの奥にいた女性店主が、少し驚いたようにこちらを見て、首をかしげた。
「ああ、それね。よく来てくれてた男の子が、置いていったものよ」
「その人、今も来ますか?」
「最近は見かけないけど……名前も訊いたことがなくて。
でも、確かに、“大切な誰かのことを、ずっと思い続けてる子”だったわ」
わたしは、言葉を失った。
遥人が、この街のどこかにいる。
それは、確信だった。
でも、もう一度会うことが、幸せなのかどうかは、わからなかった。
会わずに済ませたほうが、過去は美しく保存されるかもしれない。
それでも――わたしの足は、止まらなかった。
わたしは、その日から、毎日その店に通い始めた。
あの掲示板に、遥人からの手紙がもう一枚、増えるかもしれないという希望を胸に。
何も起きなくてもいい。
ただ、わたしは、あの言葉に返事を書きたかった。
わたしは、便箋を一枚、棚から取り出し、ペンを走らせた。
『わたしも、風が吹いたとき、
君がそこにいたような気がした。
その一瞬を、まだ信じている。』
それが、誰かの目に留まることを祈って、
掲示板の隅に、そっと留めた。
“もしも君がここを通ったなら、
どうか、この言葉の隣に、君の言葉を置いてください。”
そう願いながら、
わたしは、春の底を、ひとりで歩き続けていた。