君だけの風景
もう一度、あのベンチへ
胸のなかで、ひとつの地名が、消えずに残っていた。
それは、遥人と初めて出会った、あの駅の名前だった。
わたしが逃げるように旅を始め、
遥人が偶然のような顔で声をかけ、
ふたりが、最初に「一緒にいる意味」を知った場所。
旅を重ねれば重ねるほど、わたしは“初めの風景”へ戻っていく。
その理由を、明確に説明できるわけじゃなかった。
ただ――
もし、彼がこの世界のどこかにいるのだとしたら、
いちばん最初の場所に戻ることでしか、わたしは彼に辿りつけない気がしていた。
その朝、切符を買う指先がわずかに震えた。
駅名を口に出すこと自体が、久しぶりだった。
窓口の係員は無表情で、淡々と切符を差し出した。
その無関心さが、逆にわたしを現実に引き戻してくれた。
車窓から流れる風景は、どこか懐かしく、
けれど“懐かしい”と感じること自体が、痛みの引き金になった。
車内放送が、目的地の駅名を告げたとき、
わたしは深く息を吸って、目を閉じた。
もう、なにかを期待しているわけじゃなかった。
誰かに会えるとも思っていなかった。
ただ、自分の記憶がどこまで本物だったのかを確かめたかった。
ホームに降り立ったとき、思いのほか空は晴れていた。
あの日と同じベンチも、そこにあった。
色褪せたペンキ、少し傾いた木の脚。
座面に彫られた名前の落書きさえ、記憶のなかと寸分違わなかった。
わたしは、そのベンチにそっと腰を下ろした。
脚を揃え、手を膝の上に置いた。
隣には、もう遥人はいなかった。
風が吹き抜ける。
遠くで電車のベルが鳴る。
周囲の雑音が、いっそう静かさを際立たせていく。
ここに座っていた自分が、ほんとうにいたのだと思えなかった。
ふたりで笑った時間さえ、どこかの夢だったような感覚。
旅のすべてが、一冊の本のように、過去の棚に戻されていく錯覚。
それでもわたしは、この場所を選んだ。
この場所に戻ってくることを、自分に課していた。
遥人がいなくても、このベンチに座る勇気を持つことを。
胸の奥に、渇いた隙間のようなものがある。
その隙間に、冷たい風が入り込んでくるたび、
わたしは彼の名を、心の中で呼びそうになる。
でも、それをしなかった。
もう、“誰かに来てほしい”と願う自分を、ここに連れてきたくなかった。
もう、誰かに寄りかかるための「再会」ではなくて、
自分の足で、自分の痛みを、受け止めに来たかった。
それでも、やっぱり――
やっぱり、涙が出そうだった。
彼が去ったことを理解していても、
彼が去った“あと”のわたしを、どうしても好きになれなかった。
「強くなったね」と、もし誰かに言われたら、
わたしは迷わず首を振るだろう。
だって、強さは痛みの蓄積から生まれたわけじゃなかった。
痛みを“押し込める”術を覚えただけだったから。
わたしはベンチから立ち上がった。
もう一度、駅の改札を通って、ふたりが一緒に歩いたあの商店街を、ひとりで歩いた。
どの店も、あの日とほとんど変わっていなかった。
けれど、そこに“ふたりの姿”がないというだけで、
すべてが別の街のように見えた。
すれ違う人々のなかに、遥人の姿はなかった。
でも、それは当たり前だった。
だからこそ、わたしはようやく、現実を少しだけ許せるようになっていた。
ベンチに戻ると、わたしは小さな白い封筒を取り出した。
中には、旅のあいだ綴ってきた手紙たちが一通だけ入っていた。
わたしは、その封筒を、ベンチの下にそっと差し入れた。
届けるためではない。
ただ、“ここに、わたしはいた”という証のように。
「ありがとう」
その言葉だけを、小さく口にして、
わたしはベンチに背を向けた。
再び、わたしは歩き出した。
遥人のいない世界で、“わたしだけの道”を見つけるために。
それは、遥人と初めて出会った、あの駅の名前だった。
わたしが逃げるように旅を始め、
遥人が偶然のような顔で声をかけ、
ふたりが、最初に「一緒にいる意味」を知った場所。
旅を重ねれば重ねるほど、わたしは“初めの風景”へ戻っていく。
その理由を、明確に説明できるわけじゃなかった。
ただ――
もし、彼がこの世界のどこかにいるのだとしたら、
いちばん最初の場所に戻ることでしか、わたしは彼に辿りつけない気がしていた。
その朝、切符を買う指先がわずかに震えた。
駅名を口に出すこと自体が、久しぶりだった。
窓口の係員は無表情で、淡々と切符を差し出した。
その無関心さが、逆にわたしを現実に引き戻してくれた。
車窓から流れる風景は、どこか懐かしく、
けれど“懐かしい”と感じること自体が、痛みの引き金になった。
車内放送が、目的地の駅名を告げたとき、
わたしは深く息を吸って、目を閉じた。
もう、なにかを期待しているわけじゃなかった。
誰かに会えるとも思っていなかった。
ただ、自分の記憶がどこまで本物だったのかを確かめたかった。
ホームに降り立ったとき、思いのほか空は晴れていた。
あの日と同じベンチも、そこにあった。
色褪せたペンキ、少し傾いた木の脚。
座面に彫られた名前の落書きさえ、記憶のなかと寸分違わなかった。
わたしは、そのベンチにそっと腰を下ろした。
脚を揃え、手を膝の上に置いた。
隣には、もう遥人はいなかった。
風が吹き抜ける。
遠くで電車のベルが鳴る。
周囲の雑音が、いっそう静かさを際立たせていく。
ここに座っていた自分が、ほんとうにいたのだと思えなかった。
ふたりで笑った時間さえ、どこかの夢だったような感覚。
旅のすべてが、一冊の本のように、過去の棚に戻されていく錯覚。
それでもわたしは、この場所を選んだ。
この場所に戻ってくることを、自分に課していた。
遥人がいなくても、このベンチに座る勇気を持つことを。
胸の奥に、渇いた隙間のようなものがある。
その隙間に、冷たい風が入り込んでくるたび、
わたしは彼の名を、心の中で呼びそうになる。
でも、それをしなかった。
もう、“誰かに来てほしい”と願う自分を、ここに連れてきたくなかった。
もう、誰かに寄りかかるための「再会」ではなくて、
自分の足で、自分の痛みを、受け止めに来たかった。
それでも、やっぱり――
やっぱり、涙が出そうだった。
彼が去ったことを理解していても、
彼が去った“あと”のわたしを、どうしても好きになれなかった。
「強くなったね」と、もし誰かに言われたら、
わたしは迷わず首を振るだろう。
だって、強さは痛みの蓄積から生まれたわけじゃなかった。
痛みを“押し込める”術を覚えただけだったから。
わたしはベンチから立ち上がった。
もう一度、駅の改札を通って、ふたりが一緒に歩いたあの商店街を、ひとりで歩いた。
どの店も、あの日とほとんど変わっていなかった。
けれど、そこに“ふたりの姿”がないというだけで、
すべてが別の街のように見えた。
すれ違う人々のなかに、遥人の姿はなかった。
でも、それは当たり前だった。
だからこそ、わたしはようやく、現実を少しだけ許せるようになっていた。
ベンチに戻ると、わたしは小さな白い封筒を取り出した。
中には、旅のあいだ綴ってきた手紙たちが一通だけ入っていた。
わたしは、その封筒を、ベンチの下にそっと差し入れた。
届けるためではない。
ただ、“ここに、わたしはいた”という証のように。
「ありがとう」
その言葉だけを、小さく口にして、
わたしはベンチに背を向けた。
再び、わたしは歩き出した。
遥人のいない世界で、“わたしだけの道”を見つけるために。