君だけの風景

ふたりの旅の始まり

 あの日の再会から、わたしたちは、いくつもの言葉を交わした。
 けれど、そのどれもが、「時間」を埋めるには足りなかった。

 失われた日々を、ことばで塗りつぶすことなんてできなかった。
 だからこそ、わたしたちは少しずつ、“未来の記憶”を作っていくことを選んだ。

 

 遥人から提案されたのは、「もう一度、旅をしないか」という言葉だった。

 静かだった。
 でも、それは何よりも確かな音で、わたしの胸に届いた。

 

 「また、あの時みたいに?」

 問い返すと、遥人は小さく首を振った。

 

 「違う。……もう逃げる旅じゃない。今度は、“歩いていくため”の旅だ」

 

 その言葉に、わたしは黙ってうなずいた。
 かつて、病から目を逸らすために飛び出したわたしにとって、
 旅は“自由”の象徴だった。

 けれどいま、それは“希望”に少しずつ形を変えていた。

 

 その日の夕方、ふたりで駅に向かった。
 切符売り場の前で立ち止まり、行き先を見つめた。

 

 「行きたい場所、ある?」

 遥人の問いに、わたしはしばらく黙って考えた。

 でも、すぐに気づいた。
 場所なんて、もうどうでもよかった。

 ただ、この人と一緒に行くなら、
 見知らぬ土地も、記憶のない景色も、すべて“意味のある旅”に変わっていく。

 

 「どこでもいい。……一緒に行けるなら」

 

 遥人は笑った。
 あの頃より少し大人びた笑顔で、でも目の奥の柔らかさは変わっていなかった。

 

 その日、選んだのは南の海辺の町だった。
 まだ季節の変わり目で、観光客も少ない静かな場所。

 わたしたちは、各駅停車の電車に揺られ、
 のんびりとした時間のなかで、互いの沈黙にも少しずつ慣れていった。

 

 車窓から差し込む夕日が、遥人の頬を薄く照らしていた。
 それを、わたしは盗み見るように何度も目に焼き付けた。

 

 ふと彼が言った。

 

 「俺ね、君がいなくなったあの日、あのベンチに戻ったんだ。
  けど、君はいなかった。……あたりまえだけどさ」

 

 「……うん」

 

 「でも、ベンチの下に、封筒があった。君の字で『ありがとう』って書いてあった」

 

 わたしは、息を飲んだ。

 

 「持ってるよ。……今も、大事に」

 

 遥人は鞄から、小さな封筒を取り出した。
 それは、わたしが置いてきたそのままの姿で、
 端が少しだけ折れていたけれど、わたしの記憶と寸分違わなかった。

 

 言葉が詰まった。

 それは、まるで、
 “過去のわたし”が“今のわたし”へ、手紙を届けてきたような感覚だった。

 

 「……ありがとう。見つけてくれて」

 

 彼は、静かにうなずいた。

 

 海辺の町についたころには、夜の気配が街を包みはじめていた。
 駅前のベンチに座ると、潮の匂いがどこからともなく流れてきた。

 

 「こうしてると、あの頃のこと、全部、夢みたいだね」

 「うん。でも、ぜんぶほんとうだったよ」

 

 わたしたちは、黙ってその風景を見つめた。
 これが最初の一歩になる。そう感じていた。

 

 かつての旅は、「終わりが近づくことへの恐れ」に満ちていた。
 けれどこの旅は、“終わりがあるから始められる”ことを知ったふたりの、
 希望のかたちをしていた。

 

 翌朝、ホテルの窓から見えた朝焼けは、滲むような淡い色をしていた。
 それを見て、わたしはふと、こう思った。

 

 過去は癒えないかもしれない。
 でも、癒えない傷を抱えたまま、誰かと笑うことはできるのだと。

 

 この旅はまだ始まったばかり。
 でも、それだけで、胸の奥があたたかくなった。
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