君だけの風景
夜を、あなたと語る
波の音が、窓の外でゆらいでいた。
風も、話しかけるように軒下の竹を揺らしている。
古い民宿の和室は、畳が少し柔らかく沈み、
天井の木目は、ゆっくりとした時の流れを語っているようだった。
わたしたちは、湯上がりの薄手の部屋着で、並んで座っていた。
蛍光灯の光は頼りなく、それがかえって心の奥を穏やかにほぐした。
「ねえ」
遥人が、ぽつりと口を開いた。
「うん」
「……あのとき。病院で目が覚めたあと、最初に俺の名前を呼んでくれたって……
本当?」
わたしは、しばらく黙っていた。
でも、うなずいた。ゆっくりと、確かに。
「あの瞬間、世界のどこにあなたがいたとしても、
一番に思い浮かべたのは、遥人くんだった。……間違いなく」
彼の横顔が、わずかに震えた。
照明の影の中で、まぶたがゆっくりと伏せられるのが見えた。
「俺、あの日……あんなに責められるとは思ってなかった」
「ごめん。わたし、全部、聞いたの。医者から。家族が何を言ったかも」
遥人は肩をすくめた。
「責めてないよ。……そうなるのは当然だった。
だけど、俺はあのとき、どうしても黙ってることができなかった。
君が、旅に出た理由が、俺にはちゃんとわかってたから」
わたしは黙って、彼の指先を見つめた。
畳の上に置かれたその手が、わずかに握られていた。
「それから、どうしてわたしを探さなかったの?」
問いかけると、遥人は深く息を吐いた。
「怖かった。……また君を苦しめる気がした。
病気のことも、家族のことも、きっと俺の存在は“余計”になるって」
わたしは唇を噛んだ。
「ねえ遥人くん、わたしね……あの時、
病気よりも何よりも、誰にも“普通の女の子”として見られなくなったことが、一番つらかった」
彼は、そっとこちらを向いた。
「でも、遥人くんだけは違った。旅先で、海見ながら話したこと、夜の市場、屋台の焼きそば、くだらないことで笑って、歩いて。……それ全部が、わたしを“生きてる女の子”に戻してくれた」
彼の目が揺れていた。
わたしの声も、微かに震えていた。
「君が……そう思ってくれてたのに、俺は……」
彼は何かを言いかけて、でも言葉にならなかった。
わたしは、静かに彼の手の上に自分の手を置いた。
暖かさが、そこにあった。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
それは、とてもシンプルな言葉だった。
でも、それだけが今、どうしても伝えたかった。
遥人は、手を握り返してくれた。
その強さに、かつての迷いや後悔がすべて滲んでいた。
「これからは、ちゃんと一緒にいる。……病気のことも、全部ひっくるめて」
彼の声は少し掠れていた。
でも、その掠れが、かえって真実味を帯びて聞こえた。
「……嬉しい。でも、それでもし、わたしが急に倒れたりしても、後悔しない?」
彼はきっぱりとうなずいた。
「後悔するよ。……するに決まってる。でも、離れる後悔のほうがもっと重い」
わたしは微笑んだ。
この人は、やっぱりわたしが知っている遥人だった。
夜は更けていた。
でも、わたしたちはそのまま、電気も消さず、
小さな声でいくつもの言葉を交わした。
季節を越えて、心が追いつくまで。
時間に溺れても、ふたりが何度でも浮かび上がれるように。
ようやく眠りについたとき、
わたしは夢の中で、小さな駅のベンチに座っていた。
隣には遥人がいた。
何も言わず、ただ手を繋いでいた。
そしてわたしは、確かに思っていた。
ここが、わたしの居場所だ。
風も、話しかけるように軒下の竹を揺らしている。
古い民宿の和室は、畳が少し柔らかく沈み、
天井の木目は、ゆっくりとした時の流れを語っているようだった。
わたしたちは、湯上がりの薄手の部屋着で、並んで座っていた。
蛍光灯の光は頼りなく、それがかえって心の奥を穏やかにほぐした。
「ねえ」
遥人が、ぽつりと口を開いた。
「うん」
「……あのとき。病院で目が覚めたあと、最初に俺の名前を呼んでくれたって……
本当?」
わたしは、しばらく黙っていた。
でも、うなずいた。ゆっくりと、確かに。
「あの瞬間、世界のどこにあなたがいたとしても、
一番に思い浮かべたのは、遥人くんだった。……間違いなく」
彼の横顔が、わずかに震えた。
照明の影の中で、まぶたがゆっくりと伏せられるのが見えた。
「俺、あの日……あんなに責められるとは思ってなかった」
「ごめん。わたし、全部、聞いたの。医者から。家族が何を言ったかも」
遥人は肩をすくめた。
「責めてないよ。……そうなるのは当然だった。
だけど、俺はあのとき、どうしても黙ってることができなかった。
君が、旅に出た理由が、俺にはちゃんとわかってたから」
わたしは黙って、彼の指先を見つめた。
畳の上に置かれたその手が、わずかに握られていた。
「それから、どうしてわたしを探さなかったの?」
問いかけると、遥人は深く息を吐いた。
「怖かった。……また君を苦しめる気がした。
病気のことも、家族のことも、きっと俺の存在は“余計”になるって」
わたしは唇を噛んだ。
「ねえ遥人くん、わたしね……あの時、
病気よりも何よりも、誰にも“普通の女の子”として見られなくなったことが、一番つらかった」
彼は、そっとこちらを向いた。
「でも、遥人くんだけは違った。旅先で、海見ながら話したこと、夜の市場、屋台の焼きそば、くだらないことで笑って、歩いて。……それ全部が、わたしを“生きてる女の子”に戻してくれた」
彼の目が揺れていた。
わたしの声も、微かに震えていた。
「君が……そう思ってくれてたのに、俺は……」
彼は何かを言いかけて、でも言葉にならなかった。
わたしは、静かに彼の手の上に自分の手を置いた。
暖かさが、そこにあった。
「戻ってきてくれて、ありがとう」
それは、とてもシンプルな言葉だった。
でも、それだけが今、どうしても伝えたかった。
遥人は、手を握り返してくれた。
その強さに、かつての迷いや後悔がすべて滲んでいた。
「これからは、ちゃんと一緒にいる。……病気のことも、全部ひっくるめて」
彼の声は少し掠れていた。
でも、その掠れが、かえって真実味を帯びて聞こえた。
「……嬉しい。でも、それでもし、わたしが急に倒れたりしても、後悔しない?」
彼はきっぱりとうなずいた。
「後悔するよ。……するに決まってる。でも、離れる後悔のほうがもっと重い」
わたしは微笑んだ。
この人は、やっぱりわたしが知っている遥人だった。
夜は更けていた。
でも、わたしたちはそのまま、電気も消さず、
小さな声でいくつもの言葉を交わした。
季節を越えて、心が追いつくまで。
時間に溺れても、ふたりが何度でも浮かび上がれるように。
ようやく眠りについたとき、
わたしは夢の中で、小さな駅のベンチに座っていた。
隣には遥人がいた。
何も言わず、ただ手を繋いでいた。
そしてわたしは、確かに思っていた。
ここが、わたしの居場所だ。