君だけの風景

坂道にて


 尾道に着いたのは、午後を少し過ぎたころだった。
 鈍色の海が、静かに呼吸するように波を揺らしていた。
 フェリーを降りると、港町特有の潮の香りが、ゆっくりと鼻腔をくすぐった。

 「潮の匂い、懐かしい感じしない?」
 遥人がそう言って、片目を細める。
 わたしは「うん」と頷いたけれど、実際に懐かしいのか、それとも遥人の言葉に共鳴しただけなのか、自分でもよくわからなかった。

 駅から伸びる商店街は、どこか時代に取り残されたような匂いをしていた。
 シャッターの下りた店と、その横でひっそりと開いている小さな古本屋。
 軒先に吊るされた風鈴が、風もないのに微かに揺れていた。





 尾道の町は坂でできている。
 それは、まるで記憶の重なりを上るような感覚だった。

 「上まで行こうか」

 遥人がそう言って、猫の横をすり抜けながら階段を上っていく。
 坂の途中には、赤いポストと、枯れかけた紫陽花と、昼寝をしている猫がいた。
 すべてが、動いているのに、どこか止まっていた。

 「ここ、誰かのアルバムみたいだね」

 そう口にすると、遥人が振り返って笑った。

 「いいこと言うじゃん、雪乃」





 坂の上の寺に着いたとき、息が少しだけ上がっていた。
 だけど、それすら心地よかった。
 風が、丘の上から町全体を撫でるように吹いていた。
 海も、家々の瓦も、その風に優しく応えていた。

 遥人が隣に立って、黙って景色を見ていた。
 




 その日の夜、わたしたちは町の銭湯に入って、すぐ近くの小さなゲストハウスに泊まった。
 古い木造の建物で、廊下を歩くときしむ音が心地よかった。

 部屋の窓から、遠くに海が見えた。
 遥人と並んで縁側に座り、缶ジュースを開けた。

 「乾杯しようか。旅の途中に、今日があることに」

 「うん。旅の途中に、今日があってよかった」

 そう言って、わたしたちはジュースの缶を軽く合わせた。





 夜風が頬を撫で、遠くで船の汽笛が鳴った。
 その音が、今もどこかで聞こえている気がする。

 尾道の夜は静かだった。
 でも、静けさのなかにちゃんと“鼓動”があった。

 わたしの中の、もうひとつの鼓動。
 病気に怯えていたわたしではなく、“旅をしてるわたし”が確かにそこにいた。
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