君だけの風景

風の中に置いてきた名前

 

 彼女の名前を、あの日、病院の廊下で呼べなかった。
 東雪乃――その名前を喉の奥でつぶしたまま、俺はゆっくりと病院の出口に向かって歩いた。

 白い廊下の先で、扉が音を立てて閉まった。
 あの瞬間、世界がふたつに割れたような気がした。
 雪乃のいる世界と、俺がこれから戻る世界と。

 

 彼女の家族に責められたことを、恨んではいない。
 むしろ、当然だと思っていた。
 彼らにしてみれば、見知らぬ青年が、自分の娘を連れて各地をうろついていたのだ。
 病状が悪化し、病院に担ぎ込まれた今となっては、“連れ去った”ようにさえ見えただろう。

 

 でも、ひとつだけ、彼らはわかっていなかった。

 俺は、雪乃を“連れ去った”んじゃない。
 彼女と一緒に“歩いて”いた。
 同じ速度で、同じ風を受けて、同じ景色を見てきた。
 それだけだった。
 ただそれだけのことが、こんなにも罪深いものとして見なされることに、俺は少しだけ、世界に幻滅していた。

 

 ――名前を教えなかったのは、臆病だったからじゃない。
 この旅に“終わり”があると知っていたからだ。
 連絡先も、何も渡さなかったのは、次に会うときが“偶然”であってほしかったからだ。

 約束や繋がりではなく、“再会”という出来事に委ねたかった。
 彼女がもう一度、自分の意思で世界を歩き出すときに、もしどこかで俺を思い出してくれたなら――
 その時に、また肩を並べられたら、それがいちばん美しいと思った。

 

 病院の自動ドアが開き、湿った夕方の風が吹き込んできた。
 セミの声が、弱々しく鳴いていた。
 その音が、どこか懐かしくて、胸の奥が苦しくなった。

 ベンチに腰掛け、俺は空を見た。
 うっすらと朱に染まった雲のあいだから、まばらに光が落ちていた。

 その空の下には、もう彼女はいなかった。
 俺が知っていた雪乃は、たぶん、あの病室のなかにいながら、何かを失った。

 俺もまた、あの坂道の旅の途中で、何かを手放していた。

 

 ふいにポケットの中の紙片を取り出す。
 旅の途中、雪乃が買ってくれた“未来行き切符”と手書きで書かれた観光地の記念券。
 裏には、「これからも、“途中”で会おう」と走り書きがあった。

 

 俺は、名も告げずに彼女の世界を去った。
 それが正しかったのかどうか、今でもわからない。

 けれど、もしも彼女が、旅の続きを思い出してくれたなら――
 その記憶のどこかに、ほんのわずかでも、俺という“風景”が残っているのなら――
 それだけでいいと、そう思った。

 

 名前のないまま、風のなかに置いてきた想いは、
 いずれまた、どこかで呼ばれる日が来るかもしれない。

 

 俺は立ち上がり、北に向かって歩き出した。
 風が少し、追いかけてくるように吹いた。
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