夜を導く光、それは赤い極道でした。
【第5話】Ωのコイン
澪は、自分の手を見下ろした。
か細くて、何の力もない──ただの女子高生の手。
それでも、この手には、ちゃんと掴んできたものがある。
──あの夜。
闇の倉庫で、誰よりも先に自分の手を掴んだのは、赤いスーツの男・真次郎だった。
逃げ場のない場所で、ただ一人、外へ連れ出してくれた。
初めて足を踏み入れた屋敷で、あたたかな食事を出してくれたのは、松野の笑顔。
あの一皿に、心がゆっくり溶かされた。
危険な場面では、必ず久我山が立ちはだかった。
黙って、盾のように。
不器用な背中に、どれだけ守られてきたか分からない。
信昭は、何も訊かずに衣食住を整え、護衛までつけてくれた。
静かで優しい。それでいて、得体の知れない怖さもある。
けれど──その手は、最後まで優しかった。
「ようこそ」
そう言って、何も問わず受け入れてくれたのは、龍臣だった。
包み込むように認めてくれて、初めて“居場所”だと思える場所をくれた。
千代子は、いつも静かにリビングで待っていてくれた。
口数は少ないのに、そのまなざしは誰よりもあたたかかった。
気づけば彼女のそばが、一番落ち着く場所になっていた。
栞は、私が迷えば、まっすぐな言葉をくれた。
厳しさの中にある優しさ。その声に、何度も背中を押された。
凛は──強く、美しく、そして潔い。
一瞬の迷いもなく、命をかけて誰かを守れる人。
その背中に、ずっと憧れていた。
そして倖。
何も語らないくせに、ちゃんと見てくれていた。
謎だらけなのに、話せば黙って聞いて、ふっと笑ってくれる。その笑みに、何度も救われた。
──……自分は、きっと“運”がよかったんだ。
ただの女子高生。どこにでもいる、ありふれた存在だったのに。
いつの間にか、誰かに守られ、支えられ、生き延びていた。
それが、ただの偶然じゃないと、今なら言える。
この手にはきっと、“自分だけの強さ”がある。
ここに立っているのも、偶然じゃない。
だから──澪は、迷いなく口を開いた。
一歩、前に出て。まっすぐに、Mr.BIGを見据えて。
「私の価値あるものは、運です」
その言葉に、空気が一瞬、ひやりと凍った。
静寂の中、BIGの目元がすっと動く。
「運……か。妙な答えだな」
その低く響く声に、会場全体が息をひそめた。
倖が言っていた。下手なことを言えば指が飛ぶと。もしかしたら、首が飛ぶのかな?とも思う。だが澪は、臆することなく続ける。
「この運で、人と繋がり、ここまで辿り着きました。だからこそ、改めて確信します。この幸運を」
「ほぉ?どんな幸運があるというんだ」
BIGの言葉は穏やかなようで、重い。一音一音に圧がある。怯えてしまえば、そこで終わり。でも、大丈夫。
だって、これは……本心。
「──私の幸運は、あなたに出会えたことです」
澪の声は、静かなのに真っ直ぐだった。
──静寂。
言葉の重さが、会場全体に落ちる。
次に響いたのは、乾いた笑い声だった。
Mr.BIGが、仮面の奥でふっと笑ったのだ。
そして、手にしていたグラスを持ち上げる。
「……ならば私は、きみの“運命”になってやろう」
ざわり、と空気が揺れる。
見下ろす無数の仮面が、一斉に澪へと向けられた。
その様子を、会場の影でひとり見ていた倖は──まばたきもできなかった。
澪が、あのBIGを、言葉ひとつで動かした。
まるで運命を操るかのように。
「……マジかよ、澪ちゃん」
澪は、ただの運のいい子。そう思っていた。守られる側で、誰かが動けばよかった。
でも今、目の前で──
──運を“言葉”にして、奴を動かした……?
予想を超えた展開に、倖はただ冷や汗を流すしかなかった。
澪は、思っていた以上に──人を魅了する“力”を持っていた。
Mr.BIGが、ゆっくりとグラスを置いた。
仮面の奥にある眼差しが、まっすぐに澪を射抜く。
「名前を──」
それは命じるようでも、問うようでもなく、
ただ“選んだ者に訊く”という重みだけが乗せられた一言だった。
澪は一瞬、返事をためらった。
この場において「名前」を明かすことが、どういう意味を持つのかは分からない。けれども、後ろを振り返らずにここへ来たのは、自分の足。
ならば──胸を張って名乗るだけだ。
「澪です」
それは震えも躊躇いもない、少女の名。
その響きに、BIGがふっと仮面を傾ける。
「澪……いい名だ。流れ、運び、時に飲み込む。おまえにふさわしい」
彼は懐から小さなものを取り出した。
金の光が、掌の中に静かに灯る。
小さなコイン──だが、会場の空気がまた一段と張り詰めるのが分かった。
「きみにこれをやろう。後ろ盾の“証”だ」
コインは、彼の指先からまるで重力を無視するように澪のもとへ──その瞬間、澪の掌に落ちたのは、まるで時間さえ重くなるような冷たさだった。
表には、Ω。終焉と無限を意味する文字。
裏には、刻まれている──「FATE」の四文字。
「この世界の者がそれを見れば、“誰がきみを選んだか”を知るだろう」
静かに語るその言葉は、まるで預言のようだった。
「代わりに覚えておけ。背中に力をつけるということは、時に刃となる。運をもつ者は、時に試される」
BIGの声音は穏やかなまま。それは警告にも、導きにも聞こえた。
澪は、両手でその小さな運命を包み込み、静かに深く頭を下げる。
「ありがとうございます。──大切にします」
その一言に、BIGは満足げに小さく頷いた。
スポットライトがゆっくりと澪から外れ、会場の空気が動き出す。
だが、そこにいる者の視線だけは──まだ、澪の背中に注がれていた。
今、彼女はもう“群衆”ではない。
“印を持つ者”として、世界に刻まれた。
────
夜に選ばれた少女は
自分の名を差し出した。
命をかけず、嘘もつかず
ただ「信じる」と言った。
運命は、
そんな無垢な手を
ときに
一番遠くへ連れてゆく。
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