夜を導く光、それは赤い極道でした。
Lux21:緊迫
【第1話】空席の夕食
名を呼べば、そこにいるはずだった。
微笑みは、日常の証だった。
けれどその温もりは、
氷のような沈黙に呑まれる。
ただ、胸の奥のざわめきだけが
夜の深さを告げていた。
────
教室の窓から差し込む陽が、じりじりと背中を焦がす。
澪はノートを開いてはいたけれど、字はほとんど進んでいなかった。
「……ジロ、機嫌悪かったなあ」
ぽつりとこぼした声は、誰にも届かない。
今朝の会話が、澪の頭から離れなかった。いや、会話というほどのものですらなかった。
──鬱陶しい、って……言われたな
少しずつ、胸が重くなる。
でも、泣くほどのことでもない。澪は自分にそう言い聞かせながら、目元をこすった。
「……集中しよ……」
気持ちを切り替えようと、ペンを握り直したところでチャイムが鳴る。タイミングというのはこうも悪いのかと思った──そのときだった。
「澪さん」
ふいに名を呼ばれて、澪は顔を上げた。
ドアのところに見知らぬ女性が立っていた。職員の名札をつけてはいるが、どこか様子がおかしい。
「あの、少しお話が……」
「え、はい……?」
戸惑いつつも立ち上がると、女性はにっこりと笑った。綺麗な人だった。けれど、浮かべるその笑顔は作り物みたいで。
──千代子ママの笑顔の方が、あったかいな。
そんなことを失礼にも思っていると、女性は手を差し伸べてくる。
「こちらです」
学校関係者か何かなのか?疑問に思いつつも誘導されるまま、澪は廊下に出た。
瞬間、違和感が肌を這った。空気が重い。
廊下の窓から差し込む光が、やけに白々しく見えた。
時計の秒針の音もやけに大きく響く。
授業が終わったばかりだからか、人気がない。足音が、鳴っていく。
「──こっちです、早く」
歩調が早まる。
「えーと?あの、どこに……?」
次の瞬間。
背後から、何かが澪の口を塞いだ。
「ん……っ……!」
細い身体が、ぐっと引き寄せられる。
香水と血の匂い。
手足がじたばたと暴れても、無駄だった。抵抗は、数秒で制された。
「静かに。叫ばれると困るんだよねぇ、僕らも」
男の声が耳元に落ちた。
──だれ……なんで……なんでっ
どこか遠くで、チャイムが鳴っていた。
いつも通りの、授業の始まり。
けれど澪には、もうそれを聞く余裕などなかった。
視界が反転する。
あたたかい陽差しの世界から、ぐいと引きずり出されて──
暗い闇の中へと、澪の身体は連れ去られていった。
******
いつもの時間、いつもの場所。
夕方前。久我山は車の中で澪を待っていた。
車のエンジンは切ってある。ラジオもつけていない。ただ、校門の方だけを見ていた。
──出てこない。
下校時刻はとうに過ぎていた。
生徒たちの笑い声や、教師たちの呼びかけが消え、それぞれが三々五々と門を出ていく。
だが、澪の姿は、どこにもなかった。
違和感は、最初からあった。
今日は朝から、あいつが少し思い悩んだような顔をしていた。
いつもペラペラと一人で勝手に喋る口は閉じていて、妙な静けさが車内にはあった。
声はかけなかった。
だがそれは、判断の誤りだった。
インカムに手をかける。迎えのタイミングでは使わないはずのそれを、初めて使う。
「信昭さん、俺です。澪、校門に姿なし。時間は過ぎています。──確認に入ります」
返答を待たず、車を降りた。
門の前には、まだ数人の職員が残っていた。
「失礼、澪さんの担任は?」
名を出した瞬間、二人の教員が顔を見合わせる。
「え、あの……あの子、今日はお昼過ぎに早退を……」
頭がぐらつくような錯覚。
自分の仕事は、何だった?
「それはどこへ?」
声が一瞬だけ震えそうになって、奥歯を噛み締めて押し殺す。
「こ、小室先生に申請を出してました。急ぎで用事ができたから……って。あっ、でもその小室先生も既に帰られて……」
早退?小室?
──そんな予定、こっちは知らされていねぇぞ。
久我山の胸の奥に冷たい針が落ちる。
さっきまでの陽気な空が、急に鈍色に染まったような気がした。
「今現在、澪さんの所在は不明ということでよろしいですね」
「……は、はい」
言葉が震えていたのは、教員の声か、自分の声か。
背後では、まだ教員たちがざわついている。
だが久我山の足は、もう戻りの車へ向かっていた。
──これは、偶然じゃねぇ。
鞄の中から、小さなメモ帳を取り出す。そこには、ある日、あいつが無邪気に弄んでいたアクセサリーのスケッチが残されている。
金色のコイン。
片面には、終わりを告げるようなΩの刻印。
もう一方には──避けがたい運命を示す、「FATE」。
あの日、それを首元からちらりと覗かせたあいつを、
「護衛対象として」ではなく、「たった一人の少女」として見てしまった。
──報告はまだだ。
組には、まだ伝えない。
久我山は運転席に乗り込み、シートベルトを締めた。
まず連絡する相手は──松野だ。
澪が帰るはずだった場所に、今夜もあたたかい食卓があるのなら。
その男にだけは、先に知らせてやりたかった。
******
包丁の音が、やさしくまな板を叩く。
火の加減は、いつも通り。味噌汁の出汁も、炊き加減も、今日はもう身体が覚えていた。
面影庵の屋敷、奥のキッチン。
この時間になると厨房の灯りは一つだけになるが、それでも松野は、灯を絶やしたことがなかった。
澪が帰るはずの時間に合わせて、夕餉の支度をする。
それが習慣になったのは、いつからだっただろう。
──今日は、煮魚にした。
澪がこの前、「焼きよりこっちのほうが好き」って言ってたから。
そういう何気ない言葉を、
この男は決して忘れない。
そっと鍋の蓋を取る。湯気の向こうで、黄金色の汁が静かに揺れている。
鼻をくすぐる出汁の香りに、ふと微笑みが浮かんだ。
だが、その微笑みが残っていたのは、数秒だった。
ポケットのスマホが震える。
見るだけで、全身が凍る。
【久我山】の文字。
時間は……まだ、ほんの少し、早かった。
「……うん、松野だよ。……どうかしたの?」
通話口から、久我山の声が届いた瞬間、火を止めた。
言葉は少なかった。いや、少なくて十分だった。
松野は全てを、察してしまった。
「……そっか。……わかった、ありがとう」
静かに通話を切る。
まるで、息を止めるように。
鍋の湯気だけが、部屋に残った。
松野は、食卓に並べかけた膳をひとつ、またひとつと元に戻す。
箸を箸箱に仕舞い、湯呑を伏せる。
澪の椅子を、少しだけ奥に引いたまま、動かさない。
すべての動作が、ゆっくりすぎる。
彼女は、帰ってこなかった。
“澪はもう、戻れないよ”
“俺が、戻さないからだよ”
以前、彼女に伝えた言葉。守ることを失わないという意味で縛り付けた言葉。
澪は気にしていないようだったが、松野自身はずっと気にしていた。こんな風に自由を奪えば、余計に外に飛び出すような子だから。
まさか、それが本当になるなんて……
でも、松野はまだ、帰ってくると信じている。
それが、最も難しい祈りであることを知りながら……
ただ──信じる者にできることは、
“それでも待つ”ということだけだった。
────
静かな教室に、影が忍び寄る。
日常は、たった一歩で崩れ去る。
温もりを知った席に、
冷たい風だけが座っている。
祈る者の手は、
待つことしか許されない。
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