夜を導く光、それは赤い極道でした。
【第3話】帰らぬ朝
屋敷に戻った久我山は、いつものように報告の準備をしていた。
だが──手が止まる。
「……使ったな、あいつ」
彼の脳裏には、金のコインをかざす澪の姿が焼き付いていた。わざと離れて遠目で見ていた。
そういう命令を受けているから。何かあれば、すぐにでも駆けつけられる位置で。
しかし、その必要はなかった。
澪は自ら、ピンチを切り開いた。
あれは偶然ではない。覚悟を持って、“あの名”を口にした。
あの一瞬で、襲撃者を怯ませるだけの迫力と、運。
──BIGのコインだ。
栞との家の交渉の場で見た、あのコイン。松野、栞、そして自分だけが知る、その存在。
否、きっと真次郎も既に把握はしているはず。だからこそ、最近の奴の行動は以前とは異なる。
澪を遠ざけて、自分が傷ついて……。
澪がコインを所有していることを知るのは、この4人。だが、それを“組”として正式に把握しているわけではない。
……いや、してはならない。
信昭に報告すれば、あのコインの意味が増す。
“囮”の価値が、跳ね上がる。
──あいつを、取引材料に使いたいやつは、もう十分多い……
誰よりもそれを理解しているのは、自分だ。
だから、久我山は報告書から「コイン」の記述をそっと外した。
【襲撃未遂。澪の機転で回避。被害なし。犯人は逃走】
たったそれだけ。
信昭には十分だ。
あの男なら、「なら、しばらく放置して囮にできる」と判断するだろう。
だが、それでいい。
澪を泳がせて、引き寄せる“何か”を見る。
けれど、もし危険が迫れば──その時は、自分はどうするのか。
組への忠義、澪への情け。どちらも傾かず、均等に。
机に置いた書類の白が、ふと、澪の笑顔と重なった。
知らず知らずのうちに、胸の奥に熱が灯る。
「……俺は、情けねぇな」
独り呟いて、書類にサインを落とす。
その眼差しに浮かんでいたのは、氷のような冷静と──微かな、熱だった。
******
一方──澪の部屋。
「ふわ〜あ、ねむ……」
伸びをしながら、今日の出来事を反芻していた澪は、枕元に置いたコインをつまみ上げる。
「便利だったなぁ、これ。もうちょっと派手な場面で使うものかと思ってたけど……でも助かってよかった〜」
口元には笑み。
だけど、コインの光を見つめる瞳には、一瞬、かすかな陰りがあった。
「……あの人、すぐ行っちゃったけど。無事かな?ちょっと気になる……」
小さく唱えつつ、すぐにまた笑顔に戻り、布団にごろんと寝転ぶ。
「ま、明日は明日の風が吹く!」
******
──同時刻。
ベルモンドのアジト、地下の作戦室。
「“Ω保有者”確認。“偽装襲撃”完了。“反応”純正。──これより“観察”から“接触”へ段階移行」
室内には複数の男たちと、静かな女の影。
ベルモンドは一つ、テーブルの上の写真を指差す。
その写真には、笑顔でコインを掲げる澪の姿があった。
「……獲物が、牙を剥いたな」
男の声には、嗤うような愉悦が滲んでいた。
「──“価値”がある」
男の目が、細く笑った。
「お前たち、回収の準備を」
「「──ハッ!」」
静かな夜の帳の下。
一人の少女の運命が、音もなく変わりはじめていた。
******
朝、屋敷の廊下を歩いていた澪は、角を曲がったところでばったりと出くわした。
「あ──ジロっ!」
その声に、真次郎が立ち止まる。
黒い服の袖をまくり、真紅のジャケットを羽織った彼は、ちょうど今、仕事へ向かうところだった。
「偶然の出会いですね。朝から引き合うものがあるということでしょうね、うんうん。わかりますよ。そういえば──」
「……話しかけんな、澪」
ふいに遮られた。澪の笑顔が、そこでピタリと止まる。
一瞬、時が止まったように感じた。
鼓動の音さえ遠くなる。
「……え?どうしました?ジロ」
真次郎は視線を合わせないまま、淡々と告げた。
「おまえ、今の立場わかってねぇだろ。俺にベタベタすんな。……鬱陶しい」
言葉の一つひとつが、刃のように冷たかった。
やっぱり、真次郎はもう……自分のことを完全に嫌っているのか。
澪は少しだけ期待していた自分が、アホらしく思えた。真次郎は、どんな態度でもきっと自分を本気で嫌がることはないと、どこかで信じたかったのかもしれない。
いったい、どうしてそうなったのか。
共に笑い合っていた時間は嘘だったのか。
この気持ちも、真次郎にとっては邪魔なのかもしれない。
……好き、大好きなのに……。
届かない、触れることも困難な壁。
それでも澪は、しばらく何かを言おうと口を開きかけて──そっと閉じた。
そして、笑った。いつものように。
「……そうでしたか。それはそれは、すみません。嫌がることを、してしまって」
視線を逸らし、少しだけ目を伏せる。
「本当は、ちょっとでも顔が見れて嬉しかったんですけど……あはは、それも、ジロにはウザイだけでしたよね」
小さく息を吐いて、澪は踵を返した。
「行ってきます……それではまた、ジロ」
そう告げて、軽く手を振る。
真次郎はその背中を見送ったまま、動けなかった。
その言葉、その笑顔。
何かがおかしいと、直感が告げていた。
けれど、自分で選んだ「拒絶」に、今さら手を伸ばすことなどできるはずもなく。
「……また、って……何言ってんだ」
切なそうな声音が脳にこびりつく。
「っ……バカか、俺は」
その日、澪が帰ることはなかった。
夜の闇が、静かに彼女を呑み込んでいった。
────
静寂の夜は、何も告げない。
笑顔の奥に潜む影も、
狩人の瞳に宿る獣も。
金の証が揺れるたび、
運命は、音もなく形を変える。
帰らぬ足音が、
夜の深みに溶けていった。
Fin