春は、香りとともに。
(この香りは……“懐かしさ”)
幼いころ、庭に植えられた沈丁花のそばで、父が読み聞かせてくれた絵本の声。
戦火の前――家族が、まだひとつだった記憶。
(これは、“はじまり”の香)
指先が、香の名を記す短冊に触れる。
心を込めて、ひと文字ひと文字、書きつけてゆく。
――“春しのぶ”。
それは、自身がつけた名でもある。
ただ懐かしいだけではなく、“思い出さないようにしていた春”を、そっと呼び起こす香。
ふと隣を見ると、惟道が優しくうなずいていた。
言葉は交わさずとも、心が静かに寄り添う。