春は、香りとともに。
午後の光が、香の間を柔らかく照らしていた。
志野子は香炉に香を載せると、火加減を調えて蓋をそっと閉じた。
今日選んだのは、白檀に、ほんのわずかの乳香(にゅうこう)を加えたもの。
異国の香りが重なり、甘さと清らかさが微妙に交錯する。
香が焚かれはじめたその瞬間、空気がふっと変わる。
ふたりの間に満ちていた静寂が、柔らかな香の膜で覆われた。
「……不思議ですね」
志野子がぽつりと言った。
「香が変わるだけで、こんなにも時間がゆっくりに思えるなんて」
「それが香の本質です。
時を止めず、ただ緩やかに“漂わせる”」
惟道の声も、香に溶けてやわらかかった。