春は、香りとともに。
「……ご存知なのですか? 先生のことを」
「ええ、もちろん。――彼は、かつて我が家の文子の家庭教師でしたのよ」
文子――
その名前に、志野子の心がぴたりと凍る。
「そう……だったのですね」
「志野子さん、あなたは知らないでしょうけれど――惟道先生は、妻を亡くされている。……ご存知かしら?」
「はい……少しだけ、先生から」
夫人は茶碗を手に取りながらも、言葉を選ぶように話し続けた。
「文子は、少し気が強くてね。でも、あの方を心から愛していたのよ。……なのに」
ふと、言葉が止まる。
志野子は胸の奥がざわつくのを感じながら、膝の上の手をぎゅっと握った。
「先生は……奥様を、今も?」
夫人はその問いに、少しだけ微笑みを浮かべてこう言った。
「惟道先生は、過去を引きずる方よ。けれど、貴女がそばにいる今――どうか、その傷を、無理に覗かないであげて」
その言葉は、忠告とも、願いともつかない響きを持っていた。