その一杯に、恋を少々

第1話「香りと数字は交わらない」

 「開発メンバーは、こちらの六名になります」

 営業企画部の会議室に設けられた仮設の試飲スペース。ホワイトボードに書かれた名前の並びを見て、綾子は思わず眉をひそめた。

 《開発リーダー:海人(商品開発部)》
 《企画担当:綾子(営業企画部)》
 《副開発:悠生/アシスタント:有里/実務フォロー:凱/事務サポート:英里》

 よりにもよって、彼?

 部内で“こだわり番長”と噂される男、海人。天然素材至上主義で、人工甘味料どころか冷凍果実すら断固拒否する頑固さで有名な人物だ。

 しかも、初対面からその"こだわり"は全開だった。

 「この新企画、『季節限定の柑橘系ドリンク開発』ってことで間違いないな?」

 「ええ。企画会議で通した通り、『爽やか・映える・リピートしたくなる』をキーワードに……」

 「……映える?」

 海人の眉がわずかに動いた。

 「“映える”ドリンクなんてものは存在しない。あるのは“美味しい”か“そうじゃないか”だけだ」

 はい、きた。わかってたけど、めんどくさい。

 「その“美味しい”を判断するのは、お客様であって、あなたじゃありません」

 「味を信じて作るのが俺の仕事だ。数字を信じて媚びるのは、そっちの仕事だろ」

 「……はあ?」

 綾子が机を挟んで睨みつければ、海人もまっすぐに睨み返す。

 そのやりとりに、周囲の空気がピキッと凍りつく。副開発の悠生が、自分のマグカップをじーっと見つめながら、ぽつり。

 「……柚子湯が冷めていくの、切ないですね」

 「うん、そうだね」と隣の有里がにっこりと答えたが、内容は何一つ中和していない。

 凱がもぞもぞとポケットから手帳を取り出し、「えっと、今日の進行は……」と頑張るも、空気は重たいまま。

 英里が手元の試飲カップをひっくり返して「わああ!」と叫んだ瞬間だけ、場がちょっとだけ和んだのは、ある意味奇跡だった。

     ***

 「で? さっきから言ってる“売れる味”ってのは、具体的に何なんだ」

 「今季のトレンド分析だと、柚子×甘味で“とろみ感”のある食感が人気なんです。蜂蜜入りのゆずネードがSNSで話題になっていて、再現性が……」

 「蜂蜜って、どの蜂蜜使ってんだ?」

 「……え?」

 「国産か、ブレンドか。加熱処理の有無も含めて、香りが全然違う。とろみ感を出すなら、黒糖か甘酒のほうが柚子と合う。蜂蜜なんか使ったら、香りが潰れる」

 「いやいや、待って。そういう話をしてるんじゃないんです。データの話です。蜂蜜を使うと、お客様が“美味しそう”って感じやすいっていう、ね?」

 「“美味しそう”じゃなくて“美味しい”ものを作れよ」

 「そうやって、また自分の感覚だけで決めるんですか?」

 「俺は信じてるんだ、自分の味覚を」

 「私は、売れるかどうかで判断します」

 口をつぐんだまま、二人は睨み合う。周囲は再び沈黙。

 「ちょっと、ドア開けて空気入れ替えようか?」
 有里が優しく言う。誰にというわけでもなく、全体に向けて。

     ***

 その日の会議は、結局、素材選定の方向性も決まらぬまま終了した。

 「綾子さん、お疲れ様です」

 凱が部屋の外で小さく頭を下げる。

 「……うん、ありがとう。凱くんもね」

 エレベーターを待ちながら、綾子はこめかみに指をあてた。

 (こんなの、地獄じゃない)

 そりゃ、商品開発なんて簡単じゃないのは分かってる。だけどあの男と、この先何度も意見をぶつけ合うかと思うと――頭が痛い。

 エレベーターが到着し、ドアが開く。その中に立っていたのは、無言の海人だった。

 目が合った瞬間、お互い無言。

 綾子はそのままもう一度エレベーターの「閉」ボタンを押した。

 今日は階段でいい。

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