その一杯に、恋を少々
第2話「甘さの境界線」
朝八時ちょうど。まだ社内の照明が半分も点いていない中、試作室のスイッチがカチリと入れられた。
「……誰かと思えば」
綾子は顔を上げることもせず、コンロの火加減を見つめたままつぶやく。
「君こそ、こんな時間に来るとはな」
「アイディア出したなら、責任持って味も見たいからね。昨日のうちに原材料だけ準備しておいたの。紫芋ペーストと豆乳と――」
「……ああ、これが『映える』ってやつか」
海人が冷蔵庫を覗き、半分呆れたような声を出す。
「なんだよこの色……魔女の煮込み汁か」
「は?」
さすがに聞き捨てならず、綾子はガバッと振り向く。
「紫芋のラテ、最近すごく人気あるの。味はまろやかで色味もかわいい。ほら、こんな風にピンクがかった……」
「味より見た目じゃねえか」
「見た目で『美味しそう』って思わせるのも、大事な仕事です!」
「“仕事”と“本質”は違うだろ」
「黙って飲んでみてよ」
綾子は手早くカップに注ぎ、カウンターに差し出した。
海人は無言のまま受け取り、一口、口に含む。
――ぴたり、と動きが止まった。
「どう? 悪くないでしょ」
「……」
「ねえ?」
「……甘い」
「は?」
「甘すぎて、舌がしびれる」
ガシャン、と音を立ててカップがシンクに置かれた。
「これ、スイーツじゃないか。ドリンクとして飲むには、香りが潰れてる。柚子の皮を混ぜても、全然立ち上がってこない」
「……そこまで言わなくても」
「“口に残る甘さ”は、中毒性がある。だからって、それに依存してたら、本物の味を見失う」
「じゃあ、あなたの“本物”って何なのよ」
「自然に消える、香りの余韻。それが――」
「もういい!」
綾子はキレた。マグカップの取っ手をギリギリと握りしめたまま、怒りのままに言葉を吐き出す。
「私はあなたの味覚の信者じゃない。営業の現場では“売れるかどうか”がすべてなの。客は“香りの余韻”なんか気にしてないのよ」
「……俺は、気にする」
冷たい声だった。
気まずい沈黙の中、ドアがノックされる。
「おはようございます〜、なんかまた空気やばくないですか〜?」
軽やかな声と共に入ってきたのは有里。その後ろから、悠生と凱、そして英里が続いてくる。
「うわ、なんか甘ったるい香り……この部屋、攻撃力高くない?」
「紫芋……っぽい何かですね。香りが全体に勝っていて、バランスがない」
悠生が独自のワードで感想を述べる。
「……どれ、俺も試す」
凱が小声で呟き、一口飲んで咳き込んだ。
「う……俺には無理っす。甘すぎて」
「ちょ、正直すぎるでしょ!」
綾子は思わず叫んだが、凱は申し訳なさそうに「すみません」と頭を下げた。
「でもですね」
その場でぽつりと、有里が言った。
「私、昨日のお風呂上がりに飲んだゆず茶、すっごくほっとしたんです。黒糖と柚子だけのやつ。あれ、商品にならないのかなあ?」
「……黒糖?」
「うん。自然の甘みで、しつこくないの。飲んだあと喉がスッキリするのがいいっていうか」
綾子は思わず、海人の方を見た。
彼は、いつもの無表情のまま言った。
「……黒糖は、使える」
***
その午後、素材倉庫に足を運んだ綾子は、海人と並んで黒糖のサンプルを選んでいた。
無言が続いたが、さっきまでのピリピリ感は薄れていた。
「さっきは、ごめん」
先に口を開いたのは、綾子だった。
「言い過ぎた。ちょっと、ムキになってた」
「……こっちこそ」
「……でも、あなたの“香りの余韻”ってやつ、ちょっとだけわかったかも」
「そうか」
「飲み終わってから、口に残らないのって、逆にすごいのね」
「最初から言えばいいのに」
「は? なんでよ」
「“わかってない”って言う前に、“わかろう”ってしろよ」
綾子はむっとして言い返す。
「……うるさい。そういうとこだよ、ほんと」
「そういうとこ、ってなんだよ」
「めんどくさい」
「言い返すなよ」
「だったら突っかかってくんなっての!」
目が合い、同時にふっと笑いがこぼれた。
「ま、ちょっとは歩み寄れたってことで」
綾子が肩をすくめると、
「……ちょっとだけ、な」
海人が苦笑しながらうなずいた。
「……誰かと思えば」
綾子は顔を上げることもせず、コンロの火加減を見つめたままつぶやく。
「君こそ、こんな時間に来るとはな」
「アイディア出したなら、責任持って味も見たいからね。昨日のうちに原材料だけ準備しておいたの。紫芋ペーストと豆乳と――」
「……ああ、これが『映える』ってやつか」
海人が冷蔵庫を覗き、半分呆れたような声を出す。
「なんだよこの色……魔女の煮込み汁か」
「は?」
さすがに聞き捨てならず、綾子はガバッと振り向く。
「紫芋のラテ、最近すごく人気あるの。味はまろやかで色味もかわいい。ほら、こんな風にピンクがかった……」
「味より見た目じゃねえか」
「見た目で『美味しそう』って思わせるのも、大事な仕事です!」
「“仕事”と“本質”は違うだろ」
「黙って飲んでみてよ」
綾子は手早くカップに注ぎ、カウンターに差し出した。
海人は無言のまま受け取り、一口、口に含む。
――ぴたり、と動きが止まった。
「どう? 悪くないでしょ」
「……」
「ねえ?」
「……甘い」
「は?」
「甘すぎて、舌がしびれる」
ガシャン、と音を立ててカップがシンクに置かれた。
「これ、スイーツじゃないか。ドリンクとして飲むには、香りが潰れてる。柚子の皮を混ぜても、全然立ち上がってこない」
「……そこまで言わなくても」
「“口に残る甘さ”は、中毒性がある。だからって、それに依存してたら、本物の味を見失う」
「じゃあ、あなたの“本物”って何なのよ」
「自然に消える、香りの余韻。それが――」
「もういい!」
綾子はキレた。マグカップの取っ手をギリギリと握りしめたまま、怒りのままに言葉を吐き出す。
「私はあなたの味覚の信者じゃない。営業の現場では“売れるかどうか”がすべてなの。客は“香りの余韻”なんか気にしてないのよ」
「……俺は、気にする」
冷たい声だった。
気まずい沈黙の中、ドアがノックされる。
「おはようございます〜、なんかまた空気やばくないですか〜?」
軽やかな声と共に入ってきたのは有里。その後ろから、悠生と凱、そして英里が続いてくる。
「うわ、なんか甘ったるい香り……この部屋、攻撃力高くない?」
「紫芋……っぽい何かですね。香りが全体に勝っていて、バランスがない」
悠生が独自のワードで感想を述べる。
「……どれ、俺も試す」
凱が小声で呟き、一口飲んで咳き込んだ。
「う……俺には無理っす。甘すぎて」
「ちょ、正直すぎるでしょ!」
綾子は思わず叫んだが、凱は申し訳なさそうに「すみません」と頭を下げた。
「でもですね」
その場でぽつりと、有里が言った。
「私、昨日のお風呂上がりに飲んだゆず茶、すっごくほっとしたんです。黒糖と柚子だけのやつ。あれ、商品にならないのかなあ?」
「……黒糖?」
「うん。自然の甘みで、しつこくないの。飲んだあと喉がスッキリするのがいいっていうか」
綾子は思わず、海人の方を見た。
彼は、いつもの無表情のまま言った。
「……黒糖は、使える」
***
その午後、素材倉庫に足を運んだ綾子は、海人と並んで黒糖のサンプルを選んでいた。
無言が続いたが、さっきまでのピリピリ感は薄れていた。
「さっきは、ごめん」
先に口を開いたのは、綾子だった。
「言い過ぎた。ちょっと、ムキになってた」
「……こっちこそ」
「……でも、あなたの“香りの余韻”ってやつ、ちょっとだけわかったかも」
「そうか」
「飲み終わってから、口に残らないのって、逆にすごいのね」
「最初から言えばいいのに」
「は? なんでよ」
「“わかってない”って言う前に、“わかろう”ってしろよ」
綾子はむっとして言い返す。
「……うるさい。そういうとこだよ、ほんと」
「そういうとこ、ってなんだよ」
「めんどくさい」
「言い返すなよ」
「だったら突っかかってくんなっての!」
目が合い、同時にふっと笑いがこぼれた。
「ま、ちょっとは歩み寄れたってことで」
綾子が肩をすくめると、
「……ちょっとだけ、な」
海人が苦笑しながらうなずいた。