恋するだけでは、終われない / 気づいただけでは、終われない
第九話
「……しばらく、席を外させてもらうわ」
……月子はわたしたちに、それだけ告げると。
返事は不要だと背中で告げながら、放送室を出た。
「海原君、平気かな?」
思わず、わたしがそう口にすると。
由衣と玲香が、互いに顔を見合わせてから。
「姫妃ちゃん、あれは関わったらダメなやつです」
「そうそう、まかせとくのが一番」
ふたりが揃って、首を横にふる。
「でも。ふたりのあいだに、『なにか』あったり……」
それでも気になる、わたしがいいかけると。
「あ、なにもないですよ」
「そうそう。あのモードのときはありえないね」
ふたりが断言する、という感じで答えてくれる。
「そ、そうなんだ……」
このふたりがいうのだから、間違いないのだろう。
どうやら少し『だけ』、付き合いの短いわたしには。
まだまだ、わからないことがあるらしい。
思えばしばらく前から、月子のようすが変だった。
黙々と書類を読んでいた手が、なにかに反応したあと急にとまって。
そうしたら佳織先生と、響子先生が。
「見回りの時間、忘れてたっ!」
「ついでに、パン買ってこないと!」
そういって、慌てて部室を出ていった。
「ちょ、ちょっとトイレにいきます」
「あ、わたしも……」
由衣と玲香も、続いて消えて。
わたしだけは、演劇の雑誌に夢中だったので。
特に気にせず、部室に残っていた。
「……えっ、まだいたんですか?」
「姫妃、月子に変わった動きは?」
ふたりが、随分と時間をかけて戻ってきたと思ったら。
ボソボソと、わたしに聞いてきたけれど。
「え? 月子がどうかした?」
思わず、そう答えてしまって。
「聞こえているわよ」
……と答えた、月子のその姿が。
えっと、海原君曰くの。藤色のオーラだっけ?
とにかく、わかりやすいくらいに怒気をはらんでいて。
それから、部室を出ていった。
今後の展開が、気になるけれど。
たぶんすぐに、答えはわかるのだろう。
ここは『先輩』のふたりの、いうことを聞いておこう。
よくわからないけれど、海原君のこと。
月子、よろしくね!
……部室の、入り口で。
腕を組んで立っていた三藤先輩と、目が合って。
僕は、『辞世の句』を用意してくるべきだったと後悔した。
先輩は、ツカツカと近づきながら。
チラリと、僕の胸元を見る。
立ちどまっていた僕の真横を通過した、そのスピードは。
決して、ゆるむことはなくて。
僕は慌てて、先輩の背中を追いかけた。
……誰もいない家庭科室に入ると、先輩は扉に鍵をかけた。
「……シャツを、脱ぎなさい」
「へ?」
「制服のシャツを洗濯するから、脱いで。あと洗うあいだは、わたしを見ないで」
質問は、一切許されない。
命があるだけマシ、みたいな迫力だけれど。
三藤先輩に、僕のシャツの洗濯を頼むのはさすがに……。
「い、家に帰ってから……」
いいかけた僕を、洗剤のボトルのゴンという鈍い音が遮ると。
教室の中が、静まりかえる。
選択権など僕にはないことが、これだけ明らかな場合は。
し、従う以外に、道はなくて……。
……水をなにかに、溜める音がして。
それから、勢いよくジャブジャブと。
僕のシャツが、洗われる音が室内に響き続ける。
何度か、水を取り替える音がしたあと。
「この部活、なぜだか洗濯することが多いのよね……」
先輩のつぶやく声が、聞こえてくる。
確かに。先生のこぼしたジャムとか、あとほかにも……。
「手洗いは嫌いじゃないわ。汚れが落ちるのはスッキリする」
……いや。
とはいえ……。
ここで安易に、うなずいてはいけないと。
さすがの僕でも、『学習』している。
「……海原くんの、嘘つき」
もう少しだけ、声が大きくなってきて。
「絶対。誰にも内緒って、伝えたのに」
え、えっ……。
「海原くんが約束を破ることなんかないって、信じていたのに……」
シャツを洗う音が、どんどん激しくなって。
最後のほうは、涙の混じった声のようになっている。
「あ、あの……」
「振り向かないで!」
……強く、強く。
心の底からあふれる感情が、こめられた言葉だった。
「もし振り向いたら、二度と口を聞かない!」
先輩は、約束を守る人だ。
「……裏切って、ごめんなさい」
「そう、裏切り者!」
「身勝手で、いい加減で、不誠実で……。相談もせずに、ごめんなさい」
「ぜんぶそう、信じてたのに!」
「……ごめんなさい」
「謝らないで!」
先輩がそう、大きな声を出してから。
「それだと許さなかったら、わたしのせいになるじゃない……」
……静かに、ゆっくりと言葉を絞り出した。
おそらく、脱力した先輩の手が当たったのだろう。
ステンレスのボウルが、空っぽなまま床に落ちた音がして。
そのまま床を転がる音が、虚しく家庭科室にしばらく反響する。
「……どうしてわたしが、涙を洗わないといけないの?」
知っているんだ……。
「なんで美也ちゃんのあと始末を、わたしがやってしまうのよ……」
全部、わかっているんだ……。
三藤先輩は、その先は無言になって。
静かに規則正しく。シャツをこする音だけが聞こえてくる。
水を替え、すすいで。
また水を替え、すすいでくれる。
シャツを、絞っているのだろう。
水の落ちる音が、聞こえる。
その音が、一度、二度……。
そして、ついにとまると。
「こっちを、向きなさい!」
突然、大きな声がして。
僕が慌てて、振り返った瞬間。
なにか白い塊が。
僕の顔面めがけて、飛んできた。
「うわっ!」
真新しい洗剤の香りがするシャツは、両手で受けとめたけれど。
絞りきれていない水分が、その勢いで。
僕の顔にしぶきとなって、たっぷりかかる。
「こんな大きなシャツ、わたしの手だけじゃ絞れないわよ……」
涙だらけの、声がするのに。
三藤先輩の姿が、見えなかったのは。
しゃがみ込んだ先輩が、調理テーブルの影に隠れて見えなかったからだ。
「ご、ごめんなさい……」
自分でも、情けない声だと思った。
でも、それは。
素直に謝れなかったから、ではなくて……。
先輩が、思わず。
締まらない僕のその声に、顔を上げる。
すると、ちょっとだけ両目を大きく開けたあと。
……少しだけ、ほほえんでくれた。
「ちょっと……。どうしてそんなに、びっしょりなの?」
「シャツをキャッチしたら……。水がいっぱい、飛んできたんです……」
……怒ることに、疲れてしまったのか。
それともびしょ濡れの海原くんの姿を見て、清々したのか。
つい、わたしは。
……泣いてばかりは、もったいないと思った。
「もう。だからシャツが大きいって、いったじゃない」
しゃがみ込んだままそういう、わたしのそばに。
恐る恐る、近づく姿がある。
「こちらを向く許可は出しましたけど、近づいていいとは伝えていないわよ」
「えっ……」
海原君くんはそういって、いつものように。
その場で固まってしまうのかと、思いきや。
きょうは、その腕がまだ。
……わたしを目指して、伸びてきた。
海原くんの指先が、わたしの髪の毛に。
ためらいがちに、近づいている気配がする。
決して、触れたり。
もちろん、なでたりなどすることはなく。
微妙な場所で、とまったままなので……。
「どうしたの?」
あぁ、思わず。
わたしが先に、声をかけてしまった……。
「あの三藤先輩。小指を……」
「えっ……?」
「じゃ、じゃぁ。薬指もいいですか……」
「……バカっ!」
「へ?」
その意図を見抜いたわたしは。
わたしを見つめるその瞳と、目を合わせてから。
小さなため息まじりに、つぶやいた。
「指を引っ張って、立てると思うの?」
「い、いえでも小指しか握ったことがないので……」
「指二本でも、バランス取れないわよ……」
とはいえ。『手をつなぎましょう』とは、わたしはいえない。
でも。
……『ひとりで立てる』とも、いいたくない。
「あ、握手で……」
「握手を……」
ふたりが同時に、『無難』な提案をして。
わたしは無理なく、立ち上がれた。
……きょう、初めて。
海原昴のことを、バカと呼んだ。
でも、このときのわたしに伝えたい。
それが、ひょっとしたら。
……はじまりのひとこと、だったかもしれないと。