夜探偵事務所
第一章:花柄ワンピースの悪夢

第一章:花柄ワンピースの悪夢


田上健太(たがみ けんた)、22歳。
ありふれた大学生だった彼の人生は、順風満帆そのものだった。
都内の大学の卒業はとうに決まり、春から社会人として働くことになる一流企業の内定も、とっくに手にしている。
社会という、どこか窮屈な檻に入る前の、最後の自由。健太は、その猶予期間を満喫するため、愛用のバイクにまたがり、東北を気ままに巡る一人旅に出た。
「……少し、寄り道し過ぎたかなぁ」
山形県へと続く、闇に沈んだ山道を走りながら、健太は独りごちた。今日予約しているホテルのチェックインは18時。しかし、カーナビが表示している現在時刻は、すでに19時半を回っている。美しい渓谷や、趣のある小さな町並み。その一つ一つに心を奪われているうちに、時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。
「あと少しなんだけど……でも、トイレが限界だ。あそこに寄ろう」
視線の先に、ぽつりと浮かぶ、道の駅の明かりが見えた。
バイクを駐車場に停め、ヘルメットを脱ぐと、ひやりとした夜気が肌を撫でる。土産物屋や食堂はとうにシャッターが下ろされ、広大な駐車場に、他の車は一台も停まっていない。頼りない常夜灯と、虫を集める自動販売機の明かりだけが、アスファルトをぼんやりと照らしていた。
『……ちょっと、薄気味悪いな』
健太は心の中で呟きながらも、生理現象には抗えず、公衆トイレへと足を向けた。
カビと消毒液の混じったような、鼻をつく湿った匂い。チカチカと不規則に明滅を繰り返す蛍光灯が、健太の影を不気味に揺らす。
小便器で用を足しながら、彼は背後の静けさに、言いようのない居心地の悪さを感じていた。
その時だった。
ギィィ……。
健太の背後で、一番奥にある大便器の個室の扉が、錆びた蝶番を軋ませるような音を立てて、ゆっくりと開いた。
ちょうど用を足し終え、チャックを上げながら、健太は音のした方へと、何気なく振り向いた。
その瞬間。
今まで消灯していた、その個室の中の照明だけが、パッ、と閃光のように一度だけ点灯した。
そして、健太の世界は停止した。
ストロボの残像のように、一瞬だけ見えた光景。
古びたフックから伸びるロープの先に、人がぶら下がっていた。
花柄のワンピース。だらりと伸びた手足。ありえない角度に折れ曲がった、首。
虚空を見つめる目は白く濁り、苦悶に歪んだ唇はわずかに開いている。
「あ……」
声にならない声が、喉の奥で潰れた。
「ひっ……!」
短い悲鳴が漏れる。心臓が氷の爪で鷲掴みにされたような衝撃。全身の血が逆流し、指先から急速に冷えていく。見間違いだ。何かの悪い冗談だ。そう頭では否定しようとしても、網膜に焼き付いた光景は、揺るがない現実として健太を打ちのめす。
逃げろ。
脳が、本能が、それだけを叫んでいた。もつれる足で必死にトイレを飛び出し、アスファルトを蹴る。自分のバイクまでの数十メートルが、永遠のように長い。早く、早くここから離れなければ。あの光景が、脳裏から剥がれない。
バイクの傍までたどり着き、恐怖で震える手で、シートの横にかけてあったヘルメットを掴み、被ろうとした、その時だった。
ふわり、と。
背後から、誰かに、優しく抱きしめられるような感触があった。
細く白い両腕が、健太の首に、前からゆっくりと回される。
「え……?」
バックミラーに目をやった健太は、息を呑んだ。
さっきまでトイレにいたはずの女が、花柄のワンピースの女が、すぐ後ろに立っている。その顔には、先ほどの苦悶はなく、ぞっとするほど甘美な微笑みが浮かんでいた。
「どこへ、行くの?」
氷のように冷たい声。その声が聞こえた瞬間、健太の喉が、見えない力で締め付けられたかのように、ヒュッと鳴った。
空気が、肺に入ってこない。
首に回された腕には、全く力が入っていない。それなのに、まるで見えない霊的な何かが気道を塞いでいるかのように、呼吸ができない。視界が急速に赤く染まり、チカチカと点滅し始める。
(くる、し……死ぬ……!)
それは、極度の恐怖が引き起こした過呼吸だった。だが、パニックに陥った健太に、それを正常に判断する術はない。ただ、この女に殺される、という事実だけが、彼の思考を支配していた。
もがく健太の手に、掴んだままだったヘルメットの硬い感触があった。
これしかない。
彼は、生き延びるための最後の力を振り絞り、そのヘルメットを、背後の女に向かって狂ったように振り回した。
「うわあああああああッ!」
理性を失った獣のような雄叫びが、静かな夜の駐車場に響き渡る。
「離せ!離せぇぇぇっ!」
ゴッ!鈍い音がして、手応えがあった。だが、首が苦しい。呼吸ができない。
「死ね!死ね!死ねぇぇぇッ!!」
もう何が何だかわからなかった。ただ、この苦しみから解放されたい一心で、健太は叫びながらヘルメルトを何度も、何度も振り下ろした。女の頭に、顔に、容赦なく叩きつける。硬いヘルメットが何かを砕く、湿った感触が腕に伝わる。
やがて、喉の締め付けが、ふっと消えた。
女はぐらりと体勢を崩し、アスファルトの上に崩れ落ちる。
「はぁっ、はぁっ、ぜぇ……」
健太は、ぜえぜえと肩で息をしながら、倒れた女を見下ろした。頭から流れる血が、花柄のワンピースをどす黒く染めていく。
自分が、人を殺した。
その事実に気づいた瞬間、恐怖は新たな絶望へと変わり、健太を再び闇へと突き落とした。彼は血のついたヘルメットを放り投げ、アクセルを全開にして、その場から逃げ出した。
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